すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

書かなければいいのに

弁償するとき目が光る : 未読から起こる必然の誤解は誤解した側の単なる過失である


コメント欄が大盛り上がりだったエントリ。ゆきの怒りの発端は、ゆがんだはしごさんの“私はブロガー個人に魅力を感じない限りは、ひらがな及び「である」等は一切カットして読んでいるのです”発言。

「愛のある」リアルなセックス話しなんてそもそも書いてないんだけど?と思ったし、以前からこの人は書いてもいないことを自分で勝手に捏造して怒る傾向があり、何故?と不思議で仕方がなかったが、そういう読み方をしているのだったら誤読は必然だろう。漢字だけ抜き出して要点を得ようとしても無理だ。洗練された情報ではなく、誤った情報がインプットされてゆくだけだ。まるで意味がない。

心を満たす異性とのセックスと皮膚感覚を満たす同性とのセックス」の冒頭部分からひらがな(と、カタカナ)を抜くとこうなる。

心満異性皮膚感覚満同性

恋愛感情身体的気持良必結、、実無関係。思始、同性性的関係持。少、感情肉体的快楽結確信、自分限切離思込。、錯覚。同性愛者、。完全思。考、自分、、、。

完全言、、曖昧言葉付足、同性性的関係結、結欲望、快感。女、思。意識、同性性的関係持、始、持前興味。興味、思。機会、全然OK。

ちょう中国語っぽい。快感。女、思。全然OK。いっぽうの「欲望される悲しみと欲望されない悲しみ」は、こう。

欲望悲欲望悲

二十代前半半過、狩猟系女。*ー・・ー、呼貰構。誰呼。ー男早落、逆誘負思。自分訳。激勘違、15過夜。「誘、誘」女性誌恋愛指南書女啓蒙、一切無視我道歩。

押倒、押倒強意志、日々狩猟精出。思電話番号聞、聞会約束取付、会最後日家連込、ー浴「来、当然。当然」無言脅迫逆ー。、。女ー進、男、「ー」「?」「?」顔見楽。種類変態知。

ひらがなを抜くと、されるんだかされないんだかに関わらず、ただ「欲望悲欲望悲」になってしまうようだ。顔見楽。種類変態知。ゆがんだはしごさんはこのエントリに対して「ご指摘いただいた記事については、ニュースを読んだり、新聞を読んだりする事を主に前提にして書いたつもりなのですが。俺も、説明不足でした」とのコメントを残されている。このコメントに対するゆきの返答からまたひらがなを抜いてみるとこうなる。

『私ー個人魅力感限、及「」等一切読』書、ー個人魅力感、記事読思、違。違、ー記事限話、ー個人魅力読方読。誤読。

記事読思、記事中示通、愛書、愛話止下言。愛書誰??別人言。言及?

記事書「愛」記事書。

「ゆがんだはしごさん」は全部ひらがななので消えてしまった。


さてお遊びはこのくらいにして、誤読する読み手と誤読される書き手、どっちが悪いのか、って話。ぼくの考えはごくシンプルで、書いたものを読み手に誤読されて腹が立ったならそれは書き手が悪いのであり、読んで思ったことを文章にし誤読を指摘されたり大馬鹿者呼ばわりされて腹が立ったなら読み手が悪いのだ。ただそれだけのことだ。

書かれた文章をどう読もうがそんなものは100%読む側の自由だ。ひらがなを飛ばそうが漢字を飛ばそうが問題ない。いくら誤解されないように丁寧にていねいに言葉を選んで書いたとしても、読み手に最初から最後まで読み通す義務すら課せはしない。飛ばし読み拾い読み斜め読み意味を取り違えされて誤解されてもそれは書き手の責任なのだ。だってそうだろう。「あなたの書いたエントリを1文字置きに読んだらバモイドオキ神からのメッセージが浮かび上がってきたので、通りに出て人を殺しました」と言われたら、笑っていられるだろうか? 面白がっていられるだろうか? 少しも全く「書かなければよかった」と思わないことはありえないのではないか? だが、そういうことが起きる可能性はあるのだ。ゼロではないのだ。

一方で、読み手が読んだ結果を書き手(あるいはそれ以外の人間)に伝える場合もまったく同じだ。攻守が逆転して、読み手が書き手になるだけだ。誤読していると言われたくなければ、読んだことを知らせず黙っているのがよい。つまりまとめるとこうなる。なにものかを書き表に出した結果受ける不利益の類は全て書き手である自分の責任だ。なぜなら、「書かないこと」も選択できたのに、あなたは「書いた」からである。


この考え方はなんにでも適用できる。「する/しない」を選択可能なシーンで「する」を選ぶことには責任が伴うのだ。そしてこの思考を押し進めると、最終的には「生きる/生きない」に辿りつくことになる。生きるのが辛いことを他人のせい社会のせいにして文句を言い続ける人。そういう人を見ると「死ねばいいのに」と思う。「死ねば、いいのにねぇ」と思う。ぼくが他人に対し「死ねばいいのに」と思うのは唯一こういうシーンだけだ。まったく嫌悪も憎悪も苛立ちもなにもなしに、ただフラットな気持ちで、死ねばいいのに、と思う。えー、それなら、なんで生きてんだろ? そんなに面倒なら死ねばいいのになぁ、と思うのだ。「生きる」ことは選択なのであって義務があるわけではない。「生きない」ことも選べるのにそっちを選ばなかったために起きた結果に文句垂れてんのがよくわかんないなぁ、って話。