すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

意思と言葉とあと何か

昨日の自由意思の話への、ichinicsさんの応答。うまくコンパクトにまとまってて切り出しにくいので全文引用させてください。

相変わらず自由意志云々の話を考えていて、行動の原因としての「意志」が意志されることを考えると無限に後退していくというのは、ちょっとじっと考えてみればなるほど当たり前なことなのだけど、だとすると、もしかして意志とは、行動を意味付けるものなのだろうかと思った。そうじゃないこともありえた、と思うことも含んで、この生に意味をつける言葉が意志なのだとしたら、言語を持たずに生きるとはどういうことなのだろう。食べたい、とか、あそこまで走る、とか、そういう目的を、言語なしにどうやって「意志」するのか。「おなかすいた」というのを、言葉なしに感じている状態っていうのが、私には想像できない。もし私が言葉を知らなかったら、そこに当てはめる何か記号や色のようなものを、思い浮かべたりするのだろうか。


言葉なしに生きる、ということについては、似たような経験があります。前書いたのがあった。

「で、みちアキはどうするの?」 : 使わないと、退化します

初めて行った海外がインドで、ツアーでなくフリーで1人で1週間ほど行ったんでした。そうするとずっと気が張りつめてるから、止まって考え事してる時間なんてないんですよね。ほんとに3日ほど、内部対話がまったくない日が続きました。前書いたこの文では「反射神経で行動してる」と表現してますが、ほんとそんな感じ。意思して行動なんかしてない。周囲の環境にリアルタイムで反応してるだけ、としか言えない状態でした。

猫とか言葉ないですし。おなかすいた、とか、どう思うんでしょうね。マンガとかで見るようにネズミのイメージでも浮かぶのでしょうか。そして猫は言葉がないから、過去を懐かしんだり、未来を想ったり、することもできないはず。ただただ、現在に生きているのでしょうね(ちょっといいかも)。とか考えると、言葉って大事なんだろうなぁ、という気がする。だって「良い言葉」を知らなければ、世界を「良いもの」として捉えることができないでしょうから。世界の認識・解釈は自分の持っている言葉で行うしかないわけだから、たぶんすこしは、勉強する必要があるんでしょう。



と、フチコマ(コミック版なので)も言ってます。××××デモに対する違和も、状況は「変な要求を掲げ、大きい音で曲を鳴らしながら行進するデモ」でしかないのに、やってる内部の人がそれを認識する言葉が変に過剰だった、というところから来てるんだと思う。(もちろん、内部から見れば自分たちが普通で外が馬鹿、ということになるのでしょうけれど)