すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ぼくにとって「私」とはなにか

イチニクス遊覧日記 : 「自我」とか「主体」って何なのか


おんなじところで引っ掛かってるっぽいです。そこはやっぱりわからなかった。高田明典さんの本からはすごくいい何かが感じ取れるのだけど、最終的な世界の解釈が自分とちょっと違うらしく、肝心なところで「???」となってしまうことがときどきあります。それと、自分が哲学をちゃんとしたルート?では学んでない、というのもあると思うけれど。「自我」とか「主体」とかいうコトバの「哲学のセカイでの使われ方」がきっとよくわかってないんでしょうね。あと「他者」というのもなんのことだかわからない。よく出てくるけど。大事なコトバなんですかね。

「属性が10割」ってのは、まぁ、タイトルでひとくふう、ってやつでした(この日記では、考えているのと違うことを言うことは、ままあります)。ほんとうは99.9999……99%だと思います。残る0.0000……01%が、「私」そのものですね。

私が私の世界をどう感じているか。それは私にしか理解できないことらしい、ということが、私にとっての「考えたいこと」だ。「感じているか」の方ではなく、「私にしか理解できないこと」があるのというところが、逃れられない何か、であるように感じる。もちろん全ての「私」にとって。


ここは、自分の考えとは違うかなぁ、と思いました。ぼくは、「私の○○」という言い方で表すことができるものは、全て「属性」に過ぎない、と考えています。つまり、「私にしか理解できないこと」≒「私の考え」も属性ですね。考えが属性ってどういうことかというと、たとえば「私の考え」は、人間というハードウェアの制約を受けている、ということです。人間の脳で考えられることしか考えられない。人が解ることしか解れない。「私」がネコに宿ったのならネコの思考になるだろうし、そんなのあるのかわかんないけどもっと高性能な脳に「私」が宿ったのならそれなりの思考が可能になるだろう。あるいはそこらの石もなにかを考えてるのかもしれないし、100万年単位ぐらいの速度で。人間スケールの時間でみるとものすごい希薄な「私」を持っていたりして。

「私」とはただ「私」であって、他の方法で言い表すことは難しいと思います。無理に言うなら「在る」という感覚そのものかなぁと思う。「“私が”在る」じゃなくて「在る」。「私」という区分すらほんとうは存在しないものと思っています。CROSS†CHANNELという超名作のゲームのEDテーマの"CROSSING"という歌で、「世界と自身とを分かつ壁は 人を象り閉じ込める檻」という歌詞がでてきますが、これがもうすげー真実を語っちゃってます。つまりこのヒトのカタチをした皮膚の表面が触覚を伝えてくるってこと(&視覚聴覚の存在)、それによって、そのせいで、ぼくらはその「中」に自分がいるものだと思ってしまっている。でも、もし、そんなものが幻想だとしたら? 世界と自身とは分かたれなくなり、「私」はなくなり、ただ「在る」ということだけが残るはずです。


で、これは自我や主体とはあまり関係はありませんが、ichinicsさんが未プレイならお薦め。安いし。いやむしろ全てのはてな市民とそれ以外の方に強く推奨。この際。大丈夫だから。


クロスチャンネル ~To all people~<2800コレクション>

クロスチャンネル ~To all people~<2800コレクション>