すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

進化論のなかの、ニセ科学っぽいぶぶん。

いってみますか。その前に、いくつかお断り。

  • ID論信者ではありませぬよ。
  • と言ってその他の代替案があるわけでもありません。
  • 以前にちょっと進化論を話題にしたら「『盲目の時計職人』も読んでないのに進化論を語るな」と怒られたので、読んだ。(もちろん読んだら語る資格ができるわけでもないですが)
  • ぼくが思いつくレベルの疑問なので、どこかでとっくに、ここでこれから言うようなことに対する反論は出ているかもしれません。いやむしろそれはもうあるでしょう、『盲目の時計職人』は割と前の本ですしね。
  • id:sivadさんのエントリを引用しますが、sivadさんの意見というよりは、科学の立場を説明する一般的で理解しやすい文章、として取り上げます。


さて。sivadさんのエントリより引用します。

赤の女王とお茶を : 進化論が科学であり、ID論が科学でない理由

現代進化論のコアとなる「モデル」は

  • 生物が子孫を残す際には遺伝子において突然変異が生じ、子孫の形質が変化して多様性が生まれる
  • 多様な個体群が生じるが、環境や生殖における「淘汰」によって、形質が特定の方向に収斂したり、環境に適した形になることがある

というものです。


ぼくが「怪しい」と考えているのは、上の2つのうちの2つめ、「自然淘汰」についてです。特に、ドーキンスの言う「累積淘汰」、「眼のような複雑な器官であっても、何段階もの『突然変異と自然淘汰』のステップが積み重なることによって形成されうる」という主張は、まーなさそうだよなぁ、と考えています。その理由をまず述べます。

眼のような器官であれば、累積淘汰には相当数のステップを必要とすることと思います。ドーキンスはこう言います。えーと、早川の新装版の初版の142ページ。

私やあなたの眼に比べて5%分の視覚は、まったく視覚のない状態に比べると、それをもっているだけでとてつもなく価値がある。1%の視覚だって全盲よりはましなのだ。6%なら5%よりましであり、7%なら6%よりましであり、そうして漸進的な、連続した系列ができてくる。


眼が完成されるまでの累積淘汰の系列。何段階くらいあるんでしょうね、100か1000かそれ以上か。しかしここでぼくが疑問に思うのは、「突然変異はべつに“眼の完成”を待ってないんじゃないかなぁ」ってことです。つまりこうです。突然変異は眼の形成を司る遺伝子にだけ起こるわけではないでしょう。仮に、眼の形成にとっては不利になるような変異が起きたとします。それによって、「5%の視覚」が「4%の視覚」に後退してしまったとする。でもここで、たとえば脚の形成に関係する遺伝子にも変異が起こり、以前より少し速く走れるようになり、トータルとしては視覚の後退をカバーしてその生物の生存率が以前より上昇することになったとすれば、「自然淘汰」は眼の形成の系列を戻る方向でそのステップを終えてしまうのではないか?と思うのです。

べつに脚の遺伝子に突然変異が起きなくてもいいです。なんらかの、その生物の生存に有利な出来事が起きさえすればいい。たとえば、眼の形成には不利になる変異があったとき、しばらく(数万年とか?)よい天気が続いて食物が豊富だったとか、あるいはその生物を捕食する敵の数がなぜか減少していたとかです。形成されるべき器官が複雑であって途中のステップ数が多いほど、よりつまらない理由でステップが逆戻りするケースも増えるでしょう。5mのキリンは4m99cmのキリンより確かにいくらか高いところの葉を食べやすいかもですが、そもそも豊作(つーのか?)だったらあんまり関係なくない?みたいな。つーかこの辺、ドーキンスは簡単に考えすぎなんじゃないだろうか(素人向けの本だからか?)。眼の「見え」が変わるような器官の変化が、その生物全体にどんな影響を与えるかなんて、言えるものなんだろうか? 生物も複雑系なら環境も複雑系ですよね。そしてその2つの相互作用でしょう? でもドーキンスにはリニアなものにしか見えてない気がする。


というのが、「累積淘汰」に関する疑問。しかし「自然淘汰」という概念自体には、もっと根本的な疑問を持っています。sivadさんのエントリより。

だからこそ、「科学」の土俵に乗せられる「モデル」にはいくつかの条件が求められるのです。
その一つが「反証可能性」です。これは別にその説が不確かだという意味ではなく、
「そのモデルが間違っているかどうかを調べる実験が可能であるか」
という意味です。


うむ。しかしですね。

多様な個体群が生じるが、環境や生殖における「淘汰」によって、形質が特定の方向に収斂したり、環境に適した形になることがある


これ、反証実験できますか? ぼくはできないと思うなぁ。だっていったいなにを言ってるのかわからないもの。あいまいすぎる。そう、「水伝」を批判した「反証実験ができないものは科学ではない」という、まさにその言葉が進化論のこの部分に跳ね返ってくるわけです。「いやこれは総じて言ってるだけだから、個々の事例に関しては別」だと仰るなら、じゃあ「眼の形成の系列を進むような自然淘汰を起こす環境とはどういったものか」(これが言えないと累積淘汰が眼を造ったとは言えないのでは?)や「ある特定の環境(たとえば“日本”)を与えたとき、自然淘汰によってどの器官がどのように進化するか」を示すのでもいいです。ぼくは、そら無理や、と思うんですけど(再現性のないものは科学では云々)。

カギはたぶんここにあります。「淘汰によって環境に適した形になることがある」、これは違うんですね。ほんとうは「生き残ったものが“環境に適していた”と(後付けで)される」んです。向きが逆なんですよ。「自然淘汰」は現在から過去の方向にしか言及できない、「適した形」とはなにか、ということを、あらかじめ言うことはできないんです。つまり「自然淘汰」は実験できません。いや、できるかな? 「 ある環境に生物を放り込んで、生き残ったら『環境に適していた』、死んだら『ほら、環境に適していなかったから死んだんだよ』と言う」ってふうな実験ならば。でも100%成功すると思いますが。

つまりぼくは「淘汰によって環境に適した形になることがある」という、いわゆる「自然淘汰」、この概念は「トートロジー」もしくは「公理」みたいなものではないのかな?と考えているわけです。「恒真(生存者=適者)」か「定義(生存者⇒適者)」である。ゆえに実験不可能なのではないかなぁ、と。ゆえに――進化論の“半分”は、ニセっぽい雰囲気アリ。そう感じるのですよ。