すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

意味がないとか違うとか

:このエントリは言及先のOjohmbonXさんによると「どうやら私の書いたあのエントリ全部を(きちんと)読んではおられないらしく,あまりに誤解されているらしいので……」というようなものだそうです(コメント欄参照)。その旨了解の上でお読みください。

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僕らは妖しく這い回る : 楽をしたいだけ

・生きてる意味なんてない
 客観的な(確実な事実としての)生きてる意味というのは存在しない,ということで,生きてる意味を個々人が勝手に設定することを否定するものでは,もちろん,ない.


今日の自分は「生きてる意味はある」と言ってみたい気分なので、ちょっとそっち方面を擁護してみたい。

ぼくはいま「生きてる意味はある」と思っているので、OjohmbonXさんとは逆のことを考えている。つまり、「すべての人は生きてる意味をもともと持っているのだけど、いくらかの人は、それを見つけられない」と。こう考えて、なにか不都合があるだろうか? どちらもただ「現実をどう解釈するのか」という問題にすぎないんじゃないだろうか?

なんとなくだけど、「客観的な(確実な事実としての)生きてる意味というのは存在しない」ってのは、それを敢えて言っちゃうってのは、自分がソレを見つけられないからお前らも巻き添え、みたいな気分が感じられるのですよね。まぁもちろんぼくは逆で、もう見つけちゃってるもんねへへーん、って、見つけられない人を見下したいだけなんですが。

あとこう考えるのはいまの自分が幸福だからで、明日以降は難病に罹って死ぬまで苦しんで過ごす、とかになったら、すぐに「意味ない派」に転向すると思う。それもまぁ確実なこと。


最近ちょっと考えてる(けどまだよくわからない)ことがあって、それは、「“凡そ全て”に適用できる事実のようなものは、スルーしてもいいのではないか?」というようなこと。いいまわしが下手なのでピンと来ないかもですが。「客観的な(確実な事実としての)生きてる意味というのは存在しない」とか「すべての人は生きてる意味をもともと持っている」とかは、はたして、何かを言ったことになってるんだろうか?というのがちょっと気になってる。それは例えば同じ慣性系に属する物体どうしみたいな話で、地球はぐるぐる回ってるけど乗ってる人たち全員もぐるぐる回ってるので、ぐるぐるはとりあえず無視していいんじゃね?みたいな感じ。

金井美恵子が「ババア,と言いたい」「キャベツを買った奥さん」は「自分の為すあらゆる行為が自分の気持ち良さの追求のため」とは思っていないのだろう.


これとかも、そうだけど。全ての人が自分のために行動している。うん、それはそうなんだけど。だったら/だからこそ、「現にその人が何を為したか」が重要になってくるんじゃないのかなぁ。


まぁそれはそれとして快楽主義は賛成でございます。そのあたりはまたそのうち書くかも。