すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

お散歩日記

昨日に引き続き、朝マックを食べるために休日だというのに早起きして近所(と言っても500mは離れているけど)のマクドナルドへ。早起きの健康さをマックの不健康さで相殺である。マックグリドルのソーセージ&エッグ・チーズである。おいしくいただいた。しかしなんとなく「普通のソーセージエッグマフィンでいいんでは……」という気もしてきた。飽きるの早。ところでセット440円て微妙じゃないかなぁ。朝じゃなければ同じくらいの値段のセットはポテトもドリンクもM、しかし朝メニューだとハッシュポテトにドリンクSだ。とはいえ自分は携帯のクーポンを使ったので350円だったかな。これならまぁ妥当な価格って感じかも。

マクドナルドで昨日読みかけだった「東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)」を読んでしまうことにする。最後にやや抽象的議論でもしましょっか、ってことだったんだけど、ここの対談がいちばん面白かった。ぼくはわりと東氏よりの考えだったらしい。要するに「動物OK!」な感じ。適当に引用するとこんな。

 いずれにせよ、話を結論めいたところに持っていくと、僕がこの連続対談で東京を素材として言いたかったことは、人間は主体である前に動物であり、そしてその動物性がいまや、都市デザインを含め、社会システムの根幹を直接に決めはじめているということです。20世紀の思想家たちは、主体の脱構築、社会の脱構築をえんえんとやってきた。ところがその結果、いまや脱構築不可能な、生物学的身体としての人間だけがナマでごろんと転がっている、という感じがする。そして、その事実性を前にすると、思想家たちは驚くほど言う言葉がない。


脱構築、むずかしいことばですね。あえてせつめいするのはやめておくのできーわーどをみてください。まぁ、「それってああも言えるし、でもこうも言えるよね、どう見るかの違いじゃない?」みたいなふうか(←適当)。そうやってあらゆることを相対化してくと最後の最後に身体性みたいなことが残る。なるほどなと思った。このブログのエントリはときどき「わかりやすい」と言われることがある。それは、ひとつは単に難しい言葉を知らないので難しく書けないからであり、もうひとつは、人の理性に向かって論理的に訴えるより、身体や感情に直接的に訴えるような表現を使った方がずっと効果的だ、と知っているのでそうしているからである(わざとやっているのです。気をつけた方がいいです)。難しい言葉は別のより易しい言葉で説明できる。そうやって、他の言葉と意味のネットワークを形成している。しかし「痛い」とか「おいしい」とか「気持ちいい」「楽しい」「怖い」とかの言葉については、そこから伸びるラインは他の言葉につながっているのではなく、身体に直接つながっている(ただ「対応している」だけで、つながっていないかもしれない)。だから言葉では説明不可能なのだけれどそもそも説明不要なのだ。そして身体につながっていない言葉よりずっと強いのである。

もっともぼくは、たぶん身体も脱構築したいし、できる、と考えているのだろうと思う(その現れが「〈わたし〉とは云々」みたいなエントリになる)。

本を読み終わってしまい、家に帰ってもいいのだけど、また神保町へ行った。本と漫画を買って、上島珈琲店に入る(昨日の日記には書き忘れたが昨日も入った(黒糖ミルクコーヒー)、ので都合5店で5杯コーヒー類を飲んだことになる)。「ネギま!? neo(1) (講談社コミックスボンボン)」を読んだ。アニメ版「ネギま!?」のコミカライズとのことである。悪くない。というよりあの「巨大な原作」を相手に大健闘していると言っていいと思う。個人的には赤松絵より萌え度は高い気がする。ただし掲載誌がコミックボンボン(!?)のせいか、露出度は低め。そしてストーリーやキャラクタの性格はよりわかりやすい感じになっている(と感じるのは原作を知っているせいである可能性もある)。ぼくはneoはアリであってぜんぜんOKだと思う。重圧がかかってそうな気がするが藤真拓哉さんにはがんばって欲しい。

そしてまた移動してまたタリーズコーヒーへ。「希望のしくみ」を読む。つーか今みたら新書版があった。やってくれるなぁ三省堂。4Fレジ前に「スマナサーラ特集」みたいな感じで積んであったんだよなー。まぁいい。上座部仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏と養老孟司氏の対談本。単著では難しいひとたちも対談になるととたんにわかりやすくなるので対談本はそこがいいと思う。しかし、昨日の『東京から考える』は東氏と北田氏が対立する場面もあったのだけど、こっちにはない。そこがちょっと緊張感に欠ける。お互い相手を褒めてる。どっちが語っても同じような文章が続く。まぁ悪くない本(というか、とても良い)なので別にいいけどな。ひっじょーにわかりやすすぎる箇所を引用する。

――いつの間にか「幸せ」が、「生きるための命題」になっちゃったんですね。「幸せになるために生きる」って。昔の人は、そんなこと考えずに暮らしていたでしょうに。
養老 だからさっきから何度も、「生きる」っていう言葉が出てくるんです。生きてないから問題が起こるんですよ。
スマナサーラ そうですね。生きていないんでしょう。現に生きているんだったら、「どうやって生きるか」なんて考えないはずです。経験があると、疑問に思わないんですよ。だから「ダイコンって何だろうか?」って誰も質問しないでしょう?(笑) ダイコンなら誰でも、見て、触って、口にしているから。
 だからあなたが、「幸せってなんだろう?」って言った途端、こちらはもう、わかっています。この人はちゃんと生きていない。どこかで不満がある。うまくいっていない。そういうことですよ。本人はそこから必死で目をそらしているけどね。


このように「身体につながっている言葉」はわかりやすい。そしてこの本も読み終わってしまったのでタリーズを出る。出て、どこへ行こうかと迷う。このひとはほんとに東京を無駄にしているなぁと思う。仕方なくまた秋葉方面へ歩き出す。と、毎週歩いている道にラーメン屋を発見する(このひとはほんとにものを見ていないなぁと思う)。「大勝軒」、なんか聞いたことがあるぞ、池袋とかのだな?と思って入ってみて、「中華そば」を頼んだ。並盛りで大盛りみたいのが出てきた。そして食べてみると、これがすごくふつうである。ただのラーメンがそのままおいしくなった感じ。それで問題ないじゃないか、という意見もありましょうが、まぁ変な物が好きなので。つーか量が多くてスープは全部飲めなかった。



(続きます…)