すべての夢のたび。

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空気を読み取る器官の欠如

はてな匿名ダイアリー : 空気?読めないけどなにか?

発達障害を抱えているので、直観力というものが全く働きません。
CTスキャンでくっきり造影されるほどの「真性」障害は300人に一人だそうですが、“気質障害”“形質障害”といわれる比較的経度な人は、日本の場合「人口の約5%」程度だそうです。
「私」を含めてこういう人は、“空気を読む””直感的に良好な人間関係を築く”能力を持ち合わせていません。

この増田氏のエントリとほぼ同じ内容の日記をうっかり見つけた。まぁそれはどうでもいいや。


発達障害について前から気になっていること。この人たちはもしかしたら、映画・漫画・小説なんかを見ても面白さを感じないんじゃないだろうか。だってそこに流れているのはやっぱり空気だから。特に少女漫画とか空気のカタマリでしょ、どうなんだろう? それか、空気が読める人とは違う部分に面白さを見いだすのかなぁ。

発達障害を持っている、という人の書いた文章を見ても別に、障害を持っていない人の書いたそれとの差は感じない。文章から「発達障害を持っているか否か」は見分けがつかない。ただ、持っていると称する人の書いたほうはどれにも、似たような固い手触りがあるなぁと感じる。どれも知的・論理的かつ慇懃なのだ。もちろん、ない人だってそういう文章を書くことはあるけど、「持っている人」は逆に、もしかしたらそのような文章しか書けないのではないだろうか? それは、行間、つまり空気のない文章になっているような気がする。


目が見えないという障害は目を閉じれば疑似体験できる。耳も同様。で、発達障害は疑似体験可能だろうか? 発達障害を持つ人はどういう世界に住んでいるのだろうか?

先日、ダイアログ・イン・ザ・ダークという、視覚障害者のひとに導かれて暗闇のなかを歩くというイベントを体験したのだけど、こんなようなことが可能か? たとえば発達障害を持つ10人のなかにぼくが紛れ込むセッションとかどうだろうと思ったけど、これはちょっと考えればダメだと判る。みんな空気読めないから全部ロジックで話が進みそうだ(それはそれでかなり怖い)。では、ぼく以外を全員役者にして、彼ら同士の間では空気でコミュニケーションが進むけど、ぼくと彼らの間ではロジックでしかコミュニケーションができない、という状況を作ったらどうか? そして、それを頭の中でシミュレートすると、これってイジメじゃね……という感想になった。そうなのだろうか。そうなってしまうのかもしれないなぁ。

目が見えない人どうし、耳が聞こえない人どうしは、つながれると思うんだけど、発達障害を持つ人どうしは、つながれるんだろうか? だって、つながってしまうというのは相手の心のうちが理解できてしまうということで、でもそれって空気が読めるってことだ。つながれないのだろうか、つながる必要をそもそも感じないのだろうか。分かりあえやしないってことだけを分かりあって、そこだけでつながるのかな。

等々、関心は尽きないのですが。

これは、そのほかの様々な身体的特徴と同様その人固有のもので、多かれ少なかれこういった障害を持つ人物に、
「空気を読め」「勘を働かせろ」と要求する事は、
※目の見えない人に『よく見ろ』という
※耳の聞こえない人に『話をよく聞け』という
このような要求と同様に「物理的に無茶な話」です。

手足を失った、あるいはそれらをもって生まれてこなかった人に、
「五体満足でないのは自分が悪いのだから、健常者のように手足を生やして来い」
とおっしゃるのでしょうか?


ここで増田氏は「空気を読み取る器官の欠如」を身体障害者の例になぞらえているけど、ちょっと違うところがあると思う。手足がないのは見りゃわかるが発達障害はそうではないからだ。つまり、「空気が読めないけど発達障害ではない人」が世の中にはいる、とぼくは思っていて、そういう人には「発達障害の人」ではなく「空気が読めない人」として接するのがいいのでは、とぼくは考えているということ。いや、でも実は、その両者のカサナリは結構強かったりするのかなぁ? その辺、ぼくには知識がない。だって、見た目、わかんないんじゃ、しょーがないじゃん、と思うんだけど、そこはみてわかれ、くうきよめんだろ、ってことなのかな。

日常的に、それなりに勘働きをして生活をしているように思われていますが、それは星の数を超えるほどの膨大なパターン認識を繰り返す事で“学習”し、不測の事態に熟練する事で補っているだけなんです。


この増田氏のエントリはタイトルだけが浮いているように感じる。ぼくが「〜けどなにか?」とかタイトルに使うとしたら、それは読み手を煽るときだ。けれど、発達障害の人がそういう、感情を揺らすような言葉を無意識的に持ち出すだろうか。もしかしたらこのエントリタイトル自体、パターン認識・学習の成果として、この言葉をここに置くことである種の“空気”が醸成されるはずだ、と考えて使われているのだとしたら。