すべての夢のたび。

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「起きていることはすべて正しい」ということは正しい

起きていることはすべて正しい―運を戦略的につかむ勝間式4つの技術

起きていることはすべて正しい―運を戦略的につかむ勝間式4つの技術


未読ですが、別に読む予定もないですし、また特に読む必要がある本でもないと思います。この本はタイトルで核心・すべての秘密が明かされてしまっており、おそらく本文はタイトルの注解に過ぎないと考えられるからです。

このフレーズは「すべての物事には意味がある」「起きていることはすべて必要なことだ」など、時には微妙に形を変えて現れることもあります。が、基本、言っていることは同じです。

同様のタイトルの本は何冊も挙げることができます。また、同じことは宗教の中でも繰り返し語られますし、自己啓発本やビジネス書の中でも目にすることができるでしょう。カウンセラーのアドバイスとして出てくることもあるし、成功した有名人が自分の過去を振り返るときにもよく使われています。有名人までいかずとも、自分の親や年長の親類、上司や先輩、そういった立場の人たちがそのような事を語るのを耳にしたこともあるでしょうし、もしかしたらあなた自身、「あの時のことは今思えば……」という経験をしているかもしれません。

それらは、実際に真実を言っている。つまり「起きていることはすべて正しい」ということは正しいのだ、というのがこのエントリの趣旨です。

経験的な正しさ

強制収容所での体験を『夜と霧』(ISBN:4622039702)に著したヴィクトール・E・フランクルですが、『それでも人生にイエスと言う』(ISBN:4393363604)という本も書いています。アウシュビッツという底知れぬ“深み”を覗き込んで戻ってきた人物が、なお、人生はイエスだと告げるという事実に、一定の信頼を置いてもよいだろうとぼくは考えます。

論理的な正しさ

「起きていることはすべて正しい」のであれば、すべてのことは正しいのであるから、「正しい」「誤り」という区分が消失します。もはや正誤という概念自体が意味を持たなくなるということです。これは「起きていることはすべて正しい」という主張そのものを遡って無効化します。つまり、「起きていること」は、その正誤を問うべきでなく、「起きていること」はそのとおりにただ「起きていること」として受け止めればよい、ということになります。

物理的な正しさ

物理的にいえば、正しくない運動をする物体は存在しません。すべての物体は、“物理法則に従って”動く。それらが「間違った動き」をすること、たとえば重力に逆らってリンゴが上昇するとか、そういったことはありえません。その意味で「起きていることはすべて正しい」のです。人間だけがそんな物理的世界のうちに「誤り」「病気」「不正」を見たり、「こんなことがあっていいはずがない」という思いを持ったりしています(しかし、そのように人間が「間違う」ことすら物理的には「正しい」ことのうちにあるわけです)。

宗教的な正しさ

おまけ。宗教ではどういっているか。キリスト教では世界はそのすべてが神の計画通りに(つまり「正しく」)動いているとされています。マタイによる福音書第十章の有名な一節を引用します。「2羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その1羽も地に落ちることはない」 そのうえ頭髪の本数まで数えられているよ、と続きます。


「起きていることはすべて正しい」という主張の意味について考えているうちに、ぼくは、もしかしたらこれこそが「宗教なしにどうやって彼女を救うか」という問いの答えではないか、と考えるようになり、今では暫定的には正解だろうと思うに至りました。

ではおまえは、妹が酷い殺され方をして嘆き悲しみ犯人に憤りと恨みを抱いている姉に面と向かって「起きていることはすべて正しい」などと告げられるのか?と問われたら、それはできませんと言うほかありません。しかしそれは主張の誤りを意味しない。「いつまでも嘆いていてもしょうがないよ」という言葉だって、これは実際に正解なのですが、同じように、告げることはできはしないでしょう。それは単に「発言は空気を読んでするべきだ」というだけのことで、正解なら言えるはず、言えないなら間違っている、ということではないわけです。

「起きていることはすべて正しい」と知ったぼくは、“彼女”にどう相対するか。世界を信頼し、彼女もまたいつかその事実に気づくであろうことを期待する、というのが、「宗教なしにどうやって彼女を救うか」という問いの答えになります。当事者ならぬぼくのほうの問題はこれで解決です。では、彼女は救われたのだろうか? 事態はなにも変化してはいないのに? 答えは、「彼女はあらかじめ救われているのであらためて救う必要はない」です。なぜならすべての人はあらかじめ救われているのだから。それが「起きていることはすべて正しい」ということから導き出される真実です。あるいは「間違ったことは起きない」のだから始めから救うも救われるも救われないもない、としても同じことです。


ぼくのこの主張は果たしてどこまで有効でしょうか? もしぼくが大切な人を殺された当事者だったら、あるいは酷い病気にかかって日夜激痛に苛まれていたら、派遣を切られて明日住む場所も食べるものもなかったら、「起きていることはすべて正しい」という主張を肯定できるでしょうか。無理そうだなぁ、とは思います。しかし、言えるのは、正常な判断ができるのはどちらかというと今のほうだろう、ということです。「もしぼくが不幸な状態に陥ってあなたを呪ったとしても、それは間違いですので今のうちに謝罪しておきます」と、神がいるなら今そう告げるわけです。人生絶好調で波に乗っているから「起きていることはすべて正しい」と言っているわけでなく、ごくノーマル状態でぼくはそう思うわけです(ノーマル状態、つまり、うまくいってんだろ、と言われたらそうなのかもですが)。


以上の主張は、だから何もしなくていいんだよ、と言っているわけではありません。“彼女”に掛けるなぐさめの言葉がもしあれば掛けるべきだし、ただ側にいてあげることが必要な相手であればそうすればいいと思います。けれどもし、何をしてあげればいいのか皆目検討がつかないとか、物理的にどうしてもしてあげることができない(「お金がない」「時間がない」とか「外国」とか)という場合でも、あなたが右往左往する必要はない、という意味です。「起きていることはすべて正しい」として振る舞う意志を持ち続けよ、そうすればぶれたり迷ったりすることはないはずだ、ということです。フランクルの“イエス”も、世界はイエスなのだというより、イエスと言い続けるぞという意志のことを語ったものかもしれません。