すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(4/終)

過去分はこちら→ (1)(2)(3)

 私は断念することを教えたいんです。教えたいというとおこがましいけど、断念するということを学ぶべきだと思うんです。絶対にわからないことは、わからないってところでとめるべきです。それを言ってしまうと、世界が閉じてしまって、閉じた瞬間にパワーを失っていくに違いない。
 でも、霊魂があるかないかの話を、なぜあんなに人は大昔から古今東西、ずっと今までしてきたかというと、人ごとの話じゃないからですよ。根本には、自分は一体どこから来てどこへ行くのかがわからないという、実存の根本に不安があるんですな。
 切ない話ですよ、自分がなぜここにいるのかわからないというのは。そうすると、霊魂とかあの世とか、何か言葉を持ってきてフタをしたくなるわけです。
茂木 どこから来たのか、あるいはどこへ行くのかのどちらかを。
 あるいは両方を。これは人間の普遍的かつ根底的な欲望なんでしょう。ブッダというのはその欲望を狙ってものを言っているはずです。フタをするというのは欲だと、フタをした瞬間にものは見えなくなるぞと。
 どこから来てどこへ行くのかという、人類のこの問いに対しての答えは、人間の頭ではわからない。つまり、生まれてから考えても、生まれる前のことがわかるわけがないだろうということを言いたかったんじゃないでしょうか。それが「無記」や「無常」なんじゃないかな。そうしたタフでシビアな認識があったんだと思うんです。


さて、今回で終わりにしようかと。まぁ最初から4回くらいで終わらそうと思っていたんですが。最後に紹介する箇所をどこにしようか、一番ぐっときた(ほとんど泣きそうだった)とこにしようかと思ったけど、やはりそこは実際本を手にする人のために取っておくことにして、これまで引用したところの近辺から引くことにしました。

38-39ページ。「断念せよ」。いい話ですね。ぼくも少し前に断念したところです。何をか? 「世界とは結局のところ何であるのかを理解すること」です。

ぼくもその昔、社会人になってちょっと、ぐらいのところまでは、科学が絶対だと思っていました。宇宙は演算可能で、いずれ全ての謎は解き明かされる。宗教は心の弱い者のやること。そんな感じですね。でもいろいろ考えたのち、そもそも人間の頭は世界を理解できるような仕組みにはなっていないのではないか?と思うに至りました。

あきれるほど簡単な例だと、因果関係の話とか。結果には原因があり、そのまた原因は……と遡っていくと、じゃあそもそもの最初はどうなってんの、みたいな話になる。さらに悪いことに、その最初の「前」はどうなってたの?みたいになってしまう。人間が言葉を使って思考するいきものである限り、そういうことからは逃れられない。無から有が生まれたんだよ。そう、ぽん、と言っちゃってもいいんだけど、「光は波であると同時に粒子でもある」みたいに、そう取り扱えばうまくいくのは知ってるけど、でも実際それってどういうことなの?という問いを止められない。

最小の粒子の話もそう。豆腐とコロッケを考えてください(居酒屋メニュー風)。豆腐は切っても豆腐ですね。いっぽうコロッケは、衣があり、具があります。最小の粒子は豆腐のようなものであるはずです。それは豆腐のように「構造を持っていない」はず。コロッケみたいに構造があれば、まだ分解できるわけで、つまりそれは最小じゃないですからね。すると最小粒子は、構造がないくせに、他の粒子と一定のやり方で相互作用するという性質を持っているということになります。えーとじゃあ、どこからどうやってそんな性質が出てくるのか? 残念ながら、ここでは「なぜ」はないんですね。おそらく、ただ「そういうもの」なんです。(そのへんほんとに解っててでかい加速器とか作ってるのか少し心配なのですが…)

よく、科学は「なぜ」には答えられない、みたいな話をしますよね。なぜそうなっているのか。そもそも、なぜそれがあるのか。でもそれって、別に宗教でも哲学でも同じだと思うんです。神様が全てをお創りになったのですよ。OK, で、何で神様はそうすることにしたの。ていうか、神様はどこから来たの?

こういった「謎」に対する態度。ぼくは、問うのを止めるのではなく、というか問うのは止められないので(だって面白いし)、断念、することにしました。これはきっとぼくの頭ではわからないのだと。わからないと思いつつ問う。それは別に変なことではないです。勝ち負けにこだわらずゲームそのものを楽しむ態度です。

それにですよ。もし仮に、わかってしまったとしても。そういうことはあるかも知れません。究極の悟りを得てしまった。天啓が降りてきて全てを知ってしまった。それでも、それでも、絶対に「人間であること」からは逃れられません。全てが解ったところで相変わらずただの人です。お腹は空くし眠くなるし、夏は暑いし冬は寒いし、空は飛べないし、転べばケガをします。だったら今は、人間であるこの体が楽しむことをすればいいんじゃないかなぁと。どうせいまは、他にできることはないんです。死んだらあの世に行くのか、神様に会うのか、ただ消えてなくなるのか。そんなのは、誰もわかりません。たとえあの世から戻ってきた人から話を聞けたとしても、あなたもそれと同じ道を辿るのかどうかは実際あなたが死んでみるまでわかりません。明日も太陽が東から昇るという保証が全くないのと同じように。

というわけで、ぐるっと一周して戻ってきたわけです。十牛図のように。結局、だいたいにおいて、ぼくはふつうの人が楽しいようなものはやっぱり楽しいし、同じような話に感動したり悲しんだりする。美味しいものや美しいものや珍しいものが大好き。別に何かすごいものを求めなくても、そういうことを、ふつうにやっていけばいいんじゃないかという。いいというか、ただそうする。それが最近は居酒屋での読書だというわけです。なんか本の紹介からずいぶん遠いところまで来てしまった。