すべての夢のたび。

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道は開かれるのだろうか?(臓器移植法改正案について)

ぼくは、臓器移植法改正案は、A案でいいと思います。理由は、A案がいちばん縛りがゆるいからです。(規則の類は、なんであれ、少ない方が望ましい、とぼくは考えます)

A案の骨子は「脳死は人の死。本人の臓器提供意志が不明なら家族の同意で提供可能」というものです。家族には、臓器提供をしない自由があり、そして、そもそもの脳死判定を拒否する自由も与えられています。あなたの子供は脳死ですから、と勝手に連れて行かれてしまうようなことはないのです。

提供したい人は提供でき、したくない人はしなくてよい。非常にシンプルだし、これで特に問題があるとは思えません。「"死んでもいない"のに『臓器を提供するか?』と聞かれたくないんだ」という言い分は、ありえるとは思いますが、そのために、臓器提供をしたいという意志がさまたげられたり、臓器移植で助かるはずの命がそうならなかったりする可能性を思うとき、そのような人たちの道を塞いでまでもなお絶対通さねばならぬ主張であるとは、ぼくには感じられません。

ということでA案支持で。以下は臓器移植に関する雑感。


もともと「医療行為」ということ自体が、不自然・反自然な性質をはらむものだと思います。ほっとけば死ぬような人を機械につないでなんとか生かしている、ただ生きているだけというような状態に留め置いているようなことは、既にいくらでも行われている。さらにこの先、iPS細胞等で臓器を再生させたり、人間のクローンを作ったりするようなところまで技術は進んでしまうかもしれない。そういう時に、脳死者からの臓器移植なんてものは過渡的・中間的な技術に過ぎず、それだけを禁じるような理由は(感情的なものを除けば)特にないだろうと思うのです。いったんそちらに舵を切ったのだから、もうとことん行くしかないだろ?という感じですね。

iPS細胞で将来脳自体の再生が可能になるかもしれない、という意見も目にしました。それはそれで、そうなったら「脳死は人の死ではない」と基準を変えればよいだけだと思います(脳を再生して以前の人格が甦るかは知りませんが…)。現在すでに可能なことを禁ずるために、起こるかどうかもわからない未来のことを持ち出す理屈はおかしい。それとも、それが起こるまで"寝かせて"おくべきだ、ということなんでしょうか。

脳死と判定されたが実際はそうではなかったというケースがあることについて。これについては「やむを得ない」もの、と考えます。交通事故で人が死ぬかもしれないから車の運転は時速20Km以下でとか、いや20Km以下でも死ぬかもしれないだろ、なんてガチガチにやっていたら、社会は回らなくなってしまう。犯罪の捜査における冤罪の可能性についても同様。自分の身にそれが起こりえることを考慮しても、なお受け入れなくてはいけない"遊び"の部分だと思います。「ここ」で生きていくことを選択するのなら。

まぁ臓器移植に関しては、そもそも行わない、というオプションもあるので、死んでもいないのに臓器を持ってかれちゃう可能性を心配するのなら、コンビニで「臓器提供意思登録カード」をもらってきて「しない」にマルして身につけとくのがいいかと思います(1枚だと不安だから複数持ってあちこちに入れとくとか)。いや本当に死んだんなら移植してほしいんだよー、というのは、現時点では申し訳ないけど単なるワガママだと思うw ぼくは過去に骨髄移植のドナーをやったことがありますが、あれだって事故が起きて死ぬ可能性は1万分の1くらいはあるわけですよ。それでもやるの?ってことです。強制ではないのだし、自分で判断すればいいだけだと思う。