すべての夢のたび。

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涼宮ハルヒの消失の憂鬱

消失を2回続けて観て(通算4回目)帰ってきた状態の昨日の日記は、いま見ると少し妙なテンションだ。けれど、夢に長門でも出てこないかと期待しつつ寝て、今朝はもう起きるなり憂鬱な気分に支配されていた。思えば先週消失を観たその翌日も、やっぱりいちにち欝だった。それは単に妖怪げつようびのせいだけではないと思う。ああ、ここは改変後の世界なのだ。長門もハルヒもSOS団の誰もいないんだ、という絶望だったのだろう。

『涼宮ハルヒの消失』は、主人公キョンの決心と回帰の物語とされている。ハルヒ始め全てのメンバーがただの高校生になってしまった改変後の世界。ひとり改変前の世界の記憶を保っているキョンは、世界を元に戻すか否かで形ばかりの逡巡をする。形ばかりの、だ。心は始めから決まっていて、ただ再確認をするだけだ。もうひとりの彼が現れ彼に問う。

それでだ、俺。俺は自分に訊いている。そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?

楽しかったに決まってるじゃねえか! 分かりきったことを訊いてくるな!


キョンは、普通の女の子になってしまった長門の世界ではなく、"非日常"で"超強力"なハルヒの世界を選択する。この映画のクライマックスであり、ここでぼくは毎回理由のよく分からない涙が溢れてくる。

"消失"はいい映画だ、間違いない。でなければ誰が4度も観るものか。だが、「主人公が非日常を選択する映画」が「いい映画」だというのはいったいどういうことなのか?

……そうだ。それをいい映画だと言うぼくは、つまり「現実よりアニメのほうがいい」と言っているのだ。「『涼宮ハルヒの消失』をいい映画だと言うこと」は、要するにそういうことだ。それが、一晩寝て起きた、夢から醒めた憂欝の正体なのだ。現実よりアニメのほうがいい。だが現実だ! 長門はここにはいません……。

まぁ、この憂鬱は、経験上1日我慢すれば消え去ってくれるらしい。二日酔いのようなものだ。楽しんだ後にはツケが回ってくるのだ。だからと言って飲むのを止めてしまうのはつまらない。酒は、よいものだから。ぼくがするべきは、二日酔いを軽く済ませる方法の模索だろう。けして非日常に行きっぱなしにはならないように気をつけながら。キョンのような強さで言い切ることはできない。遺憾ながらここだけがぼくの現実なのだ。


ところで"非日常"を選択したキョンだけど、それはカモフラージュで、実際は"ハルヒ"を選択したのだ、という見方も可能だ。しかし超人ハルヒとただの人間長門ではちょっと長門の分が悪すぎる。両方とも普通の女の子だったらどうだったんだろうか。いや、消失長門はかなーりヤバかったぞ?