すべての夢のたび。

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20日のエントリの解説のつづき

さて。20日の「言語の実践」というエントリについて途中まで解説し(て、続きはあした!と言いつつサボってい)たのですが、問題はここからです。読み返して分かったけれど、短い文章にどう見ても詰め込み過ぎw これはよく分からないと言われても仕方ないレベル…。

「それらは1と0.9999…の関係みたいなものではないか」とは? 「あらゆる言語は普遍的構造を持つ」と「人間はあらゆる言語に普遍的構造を見い出す」は、同じことの違う言い回しだとぼくは考えていた、ということを表しています。ただ前者には「省略」があるのです。「(それを見るのが人間である以上、)あらゆる言語は普遍的構造を持つ(ように人間には見えざるを得ない)」と、そういうことです。

ところが、ここで@necratalloさんのリプライを受けて、少し考えが変わったのです。「普遍性を見出せることが言語の前提を成している」という文も前の2つ同じことを語っている、はずなのですが、これはどうにも言い回しが違いすぎる。そこでぼくは、この3つの文は"同じことを語っている"のではなく、"同じことについて語っている"のだと気付いたのです。それが、群盲象を撫でるという表現になっています。象にあたるのが「言語の持つある性質のようなもの」です。それは「ようなもの」といったレベルでしか言えない。言葉と世界にはスキマがあるのです。なので、象を撫でるように周囲を巡りながらいろんな言い回しで語ってみることにより、なんとなく語りたかったことの範囲が定まってくるような、そんなイメージです。

「言語の生成過程については盲」というのは、そもそも言語を作ったのは人間である、ということを忘れ去ってしまった上で、わたしたちは言語について語り、研究し、発見をしているのだ、ということです。作られたモノには作ったヒトの性質が反映されているのは、これは当たり前のことですよね? そのことを忘れて「あらゆる言語は普遍的構造を持つ」みたいなことがまるで新発見のように語られるのはちょっとおかしくね?という気分がぼくにはあるのです。最初のツイートをした背景には、「(それを見るのが人間である以上、)あらゆる言語は普遍的構造を持つ(ように人間には見えざるを得ない)」というこの「省略」について学者サンたちはあまりに無自覚・無頓着・無神経だよなぁ、といういらだちのようなものがあったのです。

…と、またここで切るw 次回最終回予定w