すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

"解る"とはいったいどういうことか?

最近になって"解る"ということについての考えがまとまったので、ちょっと書いてみます。"解る"について解った、と言えばいいのかな。

なお、以下の文章には日本語としておかしいところが出てくることになりますが、おおむね意味は通じるだろうと思うので、そのまま書きます。


人がなにかを"解った"と思うとき、脳の中でどういうことが起きているのか? 実は「"解った"という気分になる脳内物質が出ている」んですね。つまり"解った"というのは気分なんです。"解る"とは"解った気がする"ということなんです。要するに、ほんとの意味では解ってないんですね。

ぼくが昔どっかで読んだちょっと気の利いた説明では、「"解る"とは、あるレベルの無知を別のレベルの無知に置き換えること」となっていました。Aというものごとについて、「Aとは、Bのことである」と説明される。なるほど、なんとなく解った気がする。人によってはまだ脳内物質が出なくて、「Bとは、Cのことである」まで聞かないとダメかもしれません。

ここで起こっていることが、「あるレベルの無知を別のレベルの無知に置き換えること」なんですね。結局、やってることは言い換えにすぎない。Cまで聞いて解った気がした人に、「じゃーCってなんのこと?」って聞けば、「Cとは、Dのことである」って、多分言います。

辞書のことを思い出す人もいるかも知れません。Aについて辞書を引くと、Bのこと、と書いてある。Bについて引くとCと書いてある。Cを引くと、A。そうやってぐるぐる回ってたり、相互参照になってるだけだったりする。

でも、それは、ことばの世界の話です。現実はことばをはみ出す。


ことばの世界の内側でぐるぐる回ってるだけではどこにも辿り着きません。でも現実には、"解った"という瞬間がおとずれ、脳内物質がどぱーと出るタイミングがあるのです。それはいつか?

AとはB、BとはC、CとはD……。これを、ほんとうに丁寧にずっとずっとやっていくと、実はいつしか「経験」に辿りつくんですね。経験とは「もう疑い得ない地点」です。たとえば、指を切ると痛いとか、1+1は2であるとか、そういった類のものです。

そういった、疑い得ない実感に根ざした経験を、ぼくらはいっぱい抱えている。そしてその強固な土台の上に、ぼくらのことば/知識体系はレンガを積み上げるようにしっかりと組み立てられてゆくのです。だから、ことばを辿って辿って一番下の土台まで行かなくても、あるタイミングで充分に頑丈な部分に突き当たる。そこで脳内物質どぱーなわけです。1+1=2まで戻らなくても、8+8=16くらいのところまでで解ったと思うかも知れないし、人によっては(x+a)(x+b)=x^2+(a+b)x+abって聞いて、もう解っちゃった!と言うかも知れない。


"解る"って、きっとそういうことです。だから実は、ほんとうの意味で"解る"ことなんてないんです。だって、なんで1+1は2なのかとか、指を切ると痛いのかとか、それって説明できないですからね。単に、そうである、というだけしかできない。説明しようとしてみればすぐ"解る"ように、そこで起きるのは「あるレベルの無知を別のレベルの無知に置き換えること」そのものですから。


で、ぼくがこの「"解る"の解り方」に至ったヒントとなったのは、見る人が見ればすぐ気づくでしょうけど、ヴィトゲンシュタインの『確実性の問題』です。ていうかそれそのものですよね、ちょっと言い換えてるだけ。そしてこのおはなしにはもう少し続きがあるのですが、それはまたそのうちに。