すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

犬とデカルト

デカルトの「我思う故に我あり」ですけど、これ、『方法序説』の原著はフランス語なので、実際は“Je pense, donc je suis.”なんだそうです。ラテン語の“Cogito ergo sum”じゃなくって。原文の発音はわかりません。で、この「我思う故に我あり」について。デカルトは方法的懐疑というやつを使って、とにかくすべてのものを疑い、疑いつくし、その挙げ句に「しかしこの、“疑ってる自分”ってのは確かにあるよな〜、その事実だけは疑えん」という地点に辿りつき、そこをすべてを考えるための基盤としたわけです。

みちアキこと“M”も一度考えました。なぜ「我あり故に我思う」じゃないのか?と。いいんです。つまりは「思う」より「ある」のほうがだいじということ。ほかになにか、“我”の存在を導き出せるものがあったなら、「“それ”故に我あり」でもよかったんじゃないかと思います。


で、デカルトは「我思う〜」を起点にさだめ、過去のMも「そうだよなぁ、デカルトすごいなぁ」と思っていたわけですが、ここ最近のMはそうではない。それじゃだめだ、と考えていました。だいたい、「わたしとは何か?」なんて哲学の永遠のテーマじゃないですか。そんなもの(我)を自明の言葉として2回も使っちゃってるし。「思う」ってのもよくわからない(と思う)し。それに「A故にB」、「AはBの原因である」なんて推論を、何も明らかでないうちから「成り立つもの」として前提していいのかなぁ?

そうMは思った。デカルトの築いた前線はヤワ過ぎる。こんなの守りきれねえ! そして後退につぐ後退、それでついに「もう下がれません」という場所に至りました。それが「何かがある」です(誰かフランス語にしてください)。これ以上は退却不能でしょう。打ち破れもしない、よじ登れもしない、回り込めもしない絶対の絶壁だと思います。たとえMがその前に撃たれ崩れ落ちようとも、この壁は残るでしょう。だいたいこれ、否定できません(ちょっとメタ入ってるし)。これについて否定的な何かを言おうものなら、Mから「でも、あなたが言ってるその“何か”は存在するでしょ?」とツッコミが入ります。

Mとしてはこの「何かがある」をすべての基盤として考えていきたいと思ってます。ただね、壊しすぎです。あんまり派手にぶっ壊したのでもう材料がないというか、いったいこの「何かがある」の上にどうやって建物を築いていったらよいのか? それがいま、問われているわけです。途方に暮れているというか。もう疑い深さではデカルトに勝っちゃってるのではないか?


「我思う故に我あり」は思考の存在を前提としている。でも、「何かがある」には思考はいらないんです。感覚だけでいい。誰だって、目を閉じて(閉じなくてもいいけど)、自分が存在していることを感じ取ることができますよね? Mの問いはここからです。「この“自分が存在する”という感覚は、非言語的なものなのではないか?」 つまり犬でも解る、その感覚を持ちうるのではないか? それが件の犬質問、「犬は自分の存在を知っているのでしょうか? それはどのようにして確認できますか?」(question:1127311932)につながっているわけです。

その「たしかに自分が存在しているという感じ」を、Mは感覚の一種だと考えているのですけど、もしかしたらそうじゃないかもしれないなぁとも思ってます。人間が言語を獲得したことにより、「自分」「存在」「感覚」なんていう概念が形成されて、それを使って「自己を感覚している」と錯覚しているだけなのかもしれない。それならそれでいい(=それもまた面白い)とも思うんですが。


なんで「ある」にこだわるのかというと、Mは「自分がいるなぁ」「世界があるなぁ」と感じるだけで、ぼんやり幸せになれるおめでたい人間だからです。つまり「ある」と「幸福」をなんとかアクロバティックに直結させることができるんじゃないかなぁ、と考えているからなんですよ。俗っぽく言うと「生きてるだけで丸儲け」とか、要するにそんなふうなことだと思います。それをもうちょっと、誰にも、は無理だと思うから、ある種の人にはちゃんと解るようにきっちり示したい。というささやかな野望なんですね。それを絶対できると思っている自分の脳天気さがMは大好きです。のんびりやりますよ。