すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

これは結婚観の話なのだろうか?

昨日、というか20時間くらい前、@crow_henmiさんに結婚観について質問されまして、考えていることをほんの少しお話させていただきました。せっかくなので、いろいろ付け加えてまとめてみる。

あまりこの日記を知らない人への前提知識として、ぼくは既婚者ですが子どもはなし、そして別居して数年になります。平日は仕事をし、週末になるとほぼ毎回一人で同じような場所に出掛けて同じようなことをして帰ってくる、そういう気楽な生活をしています。

結婚する前は、「結婚は、するものだ」と思っていました。成人したらそれが当然だと。ほとんど何も考えていなかったです。好き合った相手であるべきだとも思っていましたが、自分に相手を選んでいる余裕がないことも解っていました。そこで、やってきたチャンスを逃すまいとして、ほとんど検討もせずに飛びついてしまったのです。

彼女のことは好ましいとは思いますが、それが恋愛感情に変化したことは今に至るまで一度もないです。で、彼女はふつうの人だったので、ぼくは結婚するにあたってオタクっぽいグッズ類を全て処分しました。今でも彼女はぼくが毎週秋葉原に行くような人間であると知らないはずです。

結婚して驚いたのが、彼女は子供はいらないと考えていたことです。いや、ふつう、作るものだろうと思っていたので、そういうことを結婚前に話し合いもしていなかったのです(するものなんでしょうか?)。そんなものかー、と思いましたが、納得するしかありません。しかし、子供を作らないとなると、結婚生活ってあとイベントないんですよね(笑)。二人暮らしが、どちらかが死ぬまで続くだけです。

そして彼女は、結婚しても働くという約束を反故にして、あまり家事もしない専業主婦になりました。週末は一緒に出掛けますが(ほんとに、毎週どこかへ外出してました)、平日は家でネットをしているだけです。ぼくは、なんで同い年のニートを養わねばならないのだろう?と疑問が沸き、何度も働いてくれるよう申し入れをしたのですが(生活もそれほど余裕があるわけではなかったので)、一向に聞き入れられず、ある日キレまして、その後1年ほどの家庭内別居を経たのちに本格別居となったのです。

結構長い間結婚生活を続けていたのは、「離婚は良くないものだ」という思いがあったからです。なので、不満があっても自分が我慢しなくてはいけないと考えていた。このあたりも今にして思えば、「結婚は、するものだ」と同じように、古い考えが染み付いていたのでしょう。別居する前後のしばらくの間は、自分は失敗したのだ、という思いでいっぱいでした。ひどく精神的に不安定な状態になっていました。


今思うことは、始めからぼくは結婚してはいけない人間だったのだ、ということです。そのことが、実際に結婚してみるまでわからなかったのです。ぼくは他人にあまり関心がないのです。自分自身のことについては、彼女に聞かれるままいろいろ話しましたが、彼女に彼女自身のことを尋ねたことはなかった。たまに彼女が自ら話し出すのを、さして興味もなく聞いていただけです。そのような人間は、結婚してはいけない、というよりも、そもそも人と付き合うべきではないのだ、と、ぼくは別居して以降考えるようになりました。なので現在も、付き合う相手については意識的に大幅に制限しているのです。

結婚は、別にしなくてもいいんじゃないか。今のぼくはそう思っています。特に男性であれば、一般的には結婚によって、自由になるお金も時間も制限されることになると思います。もちろん、それを上回る何らかのメリットがあるからこそ、人は結婚するのでしょう。通常はね。ぼくのように「結婚は、するものだ」という意識から、同じようにさして考えもせずにしてしまう人もいるかも知れません。そういう人には、よく考えたほうがいいぞ、と言いたい。

ただ、人は、結婚する人生としない人生の、両方を生きることはできません。そして、選ばなかった方の人生がよく見えてしまうことは、時にあるものだと思います。ぼくも、結婚はしましたが、子供は作らなかったので、子供がいる人生というものについてはわからないままなのです。それは、聞くところによるといいものらしいです。ただぼくはそもそも女性ではないので、子供を持つ意味のほんとうのところ?は、所詮わからないままだったのではないか、とも思っていますが。

結婚し、子供を作って暮らす。そういう人生は、まだ日本では、というか世界でも、ごく普通のことであると思いますが、とても大変なことであるとも思っています。冗談ではなくそういう普通の暮らしをしている人を尊敬しています。一方で、自分はそういうのをやる気はもうありません。ぼくには、一人の方が、楽だし楽しいです。ぼくはぼくの人生を好きなように暮らします。それは多くの部分を普通の人の普通の生活に寄りかかっている。これは抜け駆けであり、人として負担すべき部分を負担してないな、という気持ちはあるのですが、まぁ現在のところ違法ではありませんので、別にいいかなと思っています。今は、結婚して良かったなと思っています。別居した当時はそう思えませんでしたが、今ならはっきり言えます。結婚して後に別れるというのが、それをそう言うのが許されるなら、自分には最善の形だった、と。結婚しなければ、それが自分にはいらないものだったと解らずに、一生くよくよ考え続けていた可能性もあるのですから。

(しかし、ここまでのことは、自分では割と客観的な考え方であると思っていますが、ぼくが自己弁護のために編み出した考えである可能性もあります。ぼくはそれを区別できません。実際にはある程度客観である程度自己弁護なのでしょう)


なぜ人は結婚し子供を作るのか、ということについて、大雑把に3レベルの理由があると思っています。まず個人レベルだと、好きな相手がいるから。あるいは生活のため。国家としてのレベルだと、国家の拡大・発展のため。生物としてのレベルだと、子孫を残すため。こんなふうに、個人・国家・生物と3レベルあるのじゃないかと思うのですが、ここで、国家と生物については、だいたい一致してるんですよね。生めよ増やせよ。というか国家は無意識に生物の目標に一致している、と言うべきでしょう。

でも最近の国家は、個人の自由について過剰に配慮した結果、結婚なんてしなくても別にいいんじゃね?という個人をうみだしてしまった。それは、拡大・発展しなければならない国家としてはまずい。誰しも「お国のために結婚して子供を作らなくては」なんて思ってないと思いますが(戦時中ならともかく)、個人が自分の選択で結婚したり子供を作ったりしているつもりで、実はこっそり国家の意図通りに動かされている、そういうのが、国家としてのうまいやり方なんだと思います。たぶんその辺上手にやってるのはフランスで、一方今の日本は甚だまずいことになっている。

しかしここでもう少し考えてみたいと思います。実はすでに生物レベルの理由が変化しているのではないかという気が、ぼくはしています。土地も資源も有限なこの地球上で、人は無制限に増えていいわけではないのです。それを個人レベルが無意識に感知してブレーキを掛けているのではないか? そして、国家レベルだけが相変わらず、ズレた目標を掲げ続けているのではないでしょうか。ぼくはこの国は人が多すぎると思っているので、今の少子化とか結構なことだし、がくんと人口減っちゃって構わないんじゃない?と考えています。ただ、実際はそうなる過程で混乱はあるだろうと思いますが。