すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

コンテンツに真偽はない

昨日だか一昨日だか、「川崎市高津区役所でアジア系外国人が590人分の子ども手当を申請し受理された」というような内容のツイートやエントリへのリンクが、Twitterのタイムライン上を大量に流れました。そしてしばらくして、それはデマだった、というつぶやきが同じように多く流されました。

こういうことがあると、すぐ識者が「Twitter上の情報の信頼性」とか「嘘を嘘と見抜けないと」という話を始めるのですが、ぼくは別のことを考えていました。それは「真偽は内容の属性ではない」というものです。真偽は内容(コンテンツ)ではなく文脈(コンテクスト)によって決まるのです。

どういうことか? 最初の「590人分の子ども手当」は、みんなそれを真実だと考えて批判のツイートをし、情報の拡散に加担していました。そしてデマだったという情報が流れると、一斉に打ち消しのツイートを流し始めた。そうやって、最初の情報は真から偽に変わってしまった。ところが、もちろん、ここで最初のツイートの内容自体にはまったく変化はないわけです。ただ文脈が変わっただけで真偽が反転したのです。ということで、真偽は内容の内ではなく外にあることがわかりました。

これは著作権の話になんとなく似ています。著作権も同様に、内容の内ではなく外にあるものです。あるコンテンツに著作権があるかどうか、コンテンツを見ただけではわかりません。それは、そのコンテンツを眺める人たちの間のお約束によって決まるのです(だからそれは、あるやり方でコピーすることで消えたり、それに同意しない人たちによってがんがんダウンロードされたりするのですw)。これは言葉だけの話でなく現実がそうなっており、たとえばここに何かの曲のサウンドファイルがあるとすると、著作権情報は曲自体のデータとは分離して別にあるわけです。著作権があるかないかで音が変わったりはしない。ものの真偽も同じことで、たとえばweb上を流れるデータにいちいち真偽のフラグが引っ付いていたりはしないわけです。もちろんTwitterのツイートも真偽フラグはない。後から偽フラグを立てられたら便利なのかも知れませんが(笑)。

まぁ、それは、冗談で、ぼくはそういうのがないところがTwitterの良さだと思っています。ぼくはTwitterを人間の脳に模して考える(=地球の脳と考える)のが好きなのですが、人間の脳に於いても「真偽」という概念が登場したのは相当あとのことでしょう。それは言語の発生以降であるはずです。だって言語なしに嘘を付くとか、言語以前の、たとえば絵や音楽に真偽はないですからね。「虎の絵ではない」とか、描けないですから。あえて言えば、それには真しかないのです。

ということで、だから3次元だろうが2次元だろうが関係ないんだよ、現実だろうがフィクションだろうが、心を動かすものは全てホンモノなんだよ、なぜなら脳にとって嘘の感動とかそういうものはないからなんだよ、とそこまでつなげた話をしようと思っていたのですが、あんまりまとめてなくって長くなりそうなので今回はこれで。