すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

他人の生を物語として消費すること

kom’s log : 近況
(http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090213)

彼女の説得工作に見事に負けて私は11月下旬に結婚し、12月中旬にその彼女は私の家にやってきた。一緒に暮らすのも楽しいなあ、と思い始めた1月下旬に子供が産まれ、その5日後にくも膜下出血で産院から神経外科に緊急入院した。


新着エントリからひっかかった。kmiuraさんの日記を見るのは初めてだ。いい話だと思う、強く心を動かされた。こういったエントリはそのへんではあまり見ることができないので、お薦めする。(ただ、たいへんなところに更に余計な問題を持ち込みたくないので、直リンクは避けさせていただいた)

たいへんな話だけれども、これがフィクションであれば「物語中のいちエピソード」に相当するものだろうと思う。ここに至るまでのストーリーがあり、この先のストーリーが続き、そしてエンディングがあるだろう。けれどもkmiuraさんの話は現実だ。ただ現実であるというそれだけで、流れから切り離されたいちエピソードがこんなにも心を揺さぶるものになるのだ。現実ってすごい、とぼくは思った。


他人の生を物語として楽しむことに伴う「後ろめたさ」はどこから来るんだろう? そして、既に行われているその行為(ブックマークしてどうするの?ってことだよ)から「後ろめたさ」を隠蔽させている力はなんだろう?

前者は、ふつうに、「自分がされたくないことを他人にしてはいけない」というあたりだろうか。しかしなぜ「されたくない」んだろう?(そしてkmiuraさんは自分の身に起きたことをみずから公開しているのだから、このような消費をされる可能性の一部を引き受けているんだろう。それに完全に寄りかかるつもりはないけれど)

後者はもう少し複雑そうだ(そしてより面白そうだ)。巧妙に隠された「後ろめたさ」に気づいてはいけない理由は何だろう。まだ検討の浅い仮の答えだけど、もしかすると“自分のことを善き人であると考えている人にとっては、他人の生を物語として消費することから得る楽しみが、「後ろめたさ」があることで減少するから”ではないだろうか?(着想は、後ろめたいことって実は楽しかったりするよね?ってあたりから) そのために、それに気づいてはいけないのじゃないだろうか?


現実であるところの他人の生は、フィクションより濃厚で味わい深い。ぼくは善き人ではないので(いちいち断るのはなんだかギャグのようだ)、より積極的にそれを楽しめばいいじゃないか、と以前から考えていた。そしてそのためには、堂々と開き直って「後ろめたさ」を除けてしまえばいいはずだ、と思っていたのだけど、もしかしたらそれは間違っていたのかもしれない。「後ろめたさ」は、スパイスのように働くのかも知れない、ぼくみたいな人間にとっては。


kmiuraさんの日記をわざわざ見には行かないけれど、おそらく次のエントリもブックマークされるだろうから、ぼくはそれを見ることになると思う。もっとも、ぼくが見ようが見まいが、kmiuraさんが書こうが書くまいが、現実は進んでいく。進んでいって、至る。飛行機が墜ちたよ、と聞かされて、「へえ〜」で耐えうる人を美しいとは思うけれども。



追記:URLはリンクにならないように書いたのに、「このエントリーを含む日記」には出てしまうらしい。親切だなぁ。