すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

宇宙はなぜこのような宇宙なのか?

かつて科学者の大反発を浴びた異端の考え方――「人間原理」。この宇宙は人間が存在するようにできている、という一見宗教のような見方が、21世紀に入った今、理論物理学者のあいだで確実に支持を広げている。なぜか? 宇宙をめぐる人類の知的格闘の歴史から最新宇宙論までわかりやすく語る、スリリングな科学ミステリー。科学書の名翻訳で知られる青木薫の初の書き下ろし! 


タイトルに惹かれて(Koboで)購入し、さっと読了。難しいところはそんなにありません。古代から現代までの宇宙観/宇宙論の変遷を追ってゆき、その中で、近代になって出てきた人間原理の考え方を紹介する、という流れになってます。だもんで全六章構成だけど人間原理は三章でやっと出てくる。

人間原理(にんげんげんり、英:Anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類がある。
人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な説明に用いることについては混乱と論争がある。


ぼくは人間原理の考え方に違和感を持っていません。と言うより、強力な拒否反応を示す一部の人々が理解できない。もしかしたらなんか変な誤解してるんじゃなかろうか?

「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」

上の一文にはどこにも変なところはないですよね。この当たり前さ加減をどう説明したらいいんだろう。人間の知能の発達を不思議に思うけど、知能が発達しなければそもそもそう思うことすらできない。ぼくが生まれたことを不思議に思うけど、生まれなかったらそもそもそう思うことすらできない。それだけの話だし、それって当然ですよね。どこに引っ掛かるのかな。

兎にも角にも、こうしていまここに宇宙はある。さまざまな物理定数が奇跡的なバランスを取っているように見えるけど、そうでなければ、それを「奇跡だ!」というぼくらが生まれていない。ただちょっと、このことの言い回しを変なふうにしてしまう人はいるんですよね。「物理定数の値は知的生物を生み出すように調整されている」みたいな、目的論風に。でもそれ言葉の問題だけだと思うんです。事実を、現実を見ろと。実際そうなってる。で、なんの問題が?

あれかな、「適しているのは」がマズいのかな。結果が原因を導いているように聞こえちゃってるのかも知れませんね。もちろんそんなことはなくて、たまたま、ぐうぜん、物理定数が人間が生まれるような値だったから、人間が生まれたわけです。


で、この本では、最新の宇宙論である「多宇宙ビジョン」を紹介しています。宇宙そのものがいっぱいある。無限か、無限に近い数(?)だけある。その中に充分ぼくらのこの宇宙が存在できるくらい、宇宙はいっぱいある。そういう話です。

多宇宙ビジョンの問題は、それがほんとうであることを証明できないってことです。他の宇宙が実際に存在するのか、観測も実験もできない。ぼくらの宇宙はインフレーションの海に無数に浮かんだ小さな泡のひとつの、さらにその中のほんの一部の見える(光が届く)範囲。そんなものが、最近までぼくらが宇宙と呼んでたものなんです。そしてぼくらの宇宙は孤立無援で、他の宇宙は音信不通だという。

多宇宙ビジョンて途方もない。しかし「この宇宙の存在はたまたま、ぐうぜんであって、"誰か"が作ったわけじゃない」って言うためには、ここまで大げさなもの(しかも存在を証明する方法すらない)を想定してあげる必要があるんですね。それを科学と呼んでいいのかどうかは議論があると思います。