すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「ブログに書くことがない」ですって??

ぼくはぼく自身がネタなので書くことはありますよ、と。(え、みんなこういうの(5/19のエントリ)が読みたかったんじゃないの?)

悪趣味かつ露悪趣味、行動する「黒いひと」のみちアキでした。あーなんだかいくら手を差し伸べられてもすべて振り払ってしまう沙都子の気分っていうか、ゲームや漫画からしか引用できない人をオタクと言うのだって誰かが言ってました。(そしてにーにーはどこに?)

夢見てモノ書く

fromdusktildawnさんの「分裂勘違い君劇場が目指したものとその舞台裏」やその他最近のエントリを見ると、「解題・ムーノーローカルの作り方」が連想される。どちらも思わずHDDに保存したくなってしまう文書なのだけど、そこを堪える必要がある。保存して安心して終わってちゃいけない。どちらも、実際に活用しなくては意味がない、または、自分のブログについてのこれらに相当するものを練らなくてはいけないのだ、と思う。

つっても無理ですけどねー。やはり、こういうことができる人たちとは何かが違うんだろうなぁ。頭の回転の速さももちろんそうなのだけど、一番感じるのは、自分で決めたことをやり遂げようとする意志の強さでしょうか。ぼくにはそれがない。このブログでやりたいことの方向性は一応はあってぼんやり目指してはいるのだけど、やる、と自分と約束しているのは「毎日更新」のただひとつだけです(それさえときどきインチキがありますが)。


ぼくは、絵や音楽などのほうが絶対に言葉よりすごい、と考えています。絵を描ける人たちや曲を作れて演奏ができる人たちをほとんど無条件に尊敬している。言葉なんてぜんぜん大したものではない。思っていることはまずまともに伝わんないし、伝わる範囲だって狭すぎる(日本語しか書けないしなぁ)。昔インドへ行ったとき、まぁカレーを食べるわけですよ。トマトとチーズの、とろっとした赤いカレー。そしてすげえ美味いわけ。なにこれ!?と思いつつ宿の厨房のほうを見ると、ドア(ないけど)の影からインド人コック(の格好はしてないけど)がこっそりこちらを覗いている。そっちへ顔を向けてこぶしをグッと握って、ウマいよこれ!という思いを込めてニッコリ微笑んでみせる。と、彼も、そうだろう?という顔ですこし控えめにしかし自信ありげに微笑みを返す。そして、なーんだ、ちゃんと伝わってんじゃん、と思う。言葉なんて介在しなくても100%伝わってる。それだけでいいんじゃないか。

そして絵や音楽には(あっ、料理にもか!)そういう、ダイレクトに何かを伝える力がある、と思う。それは言葉にはない。しかしぼくには言葉しかない(ネットだしな)。ので、言葉でその何かを伝えようとあがくわけですよ。すると論理を超えた部分でなんとかしなくちゃいけなくなるわけです(コンピュータ用のプログラム言語で詩を書くにはどうしたらいいのかって話)。初めから無理な相談と解っていながらも、それでもその場所へもしかしたらいつか到達できるんじゃないか?(肉薄ではない、到達です)、というふうに、矛盾を、幻想を、あきらめと希望をなんとか胸のうちに同居させること(または1万分の1秒単位でスイッチさせ続けること)。それがちゃんとうまくできるようになれば、ぼくはぼくの目指しているものを書けるようになるような気がする。

広く知ること、基準を持つこと、そしてあなたは誰なのか。

料理人に最も必要なものは舌なんだなあと感じたのはNHKのテレビ小説ほんまもんを見ていた時なんですが、包丁捌きとか調理のテクニックではなくて、うまいかまずいかを感じられる舌が最も重要なんですよね。


このあと、写真家に必要なのは写真に対する感性であり、デザインに対しても作る側・使う側の「舌」が大事、という話へ続いていく。そしてこれはちょっと前に流行ってたブログ文章術系エントリのうちのひとつ、「面白い文章を書くには、本を読め」って話と同じなんだった。どういうのが面白い文章なのかという基準も持たずに、自分の書いたものがそれなのかどうか判断できるわけもない。

そして、そこから更に考えを進められないか試してみる。ぼくは自分がどういう人間なのかよく分からない、と感じている。それは……他人というものをあまり知らないからではないのか!?という、うわー酷い結論に辿りついてしまった(でも多分正しい)。ふーんじゃあ書を捨てて街へ出て人とコミュニケーションしましょうか?ってなるのだけど、ならないのだな。なぜだろう? 世間基準と自分基準のズレの話になるのかな。


余談というか。自分がどういう人間なのかわからないので、ネットで見掛ける性格判断みたいなのをよくやるわけです。と、「○○が好きだハイイイエ」みたいな設問があって、考え込んでしまう。自分はそれを好きなのだろうか、そうではないのだろうか。たまにはアレすることもあるからもしかしたら好きなのかもしれないなぁ。いやいやでもその程度じゃふつう好きって言わないんじゃないの? みたいな脳内会話が始まる。そしてめんどうになってしまい、途中まで答えてきたのを止めてしまうことが非常に多い。設問を考える人はぜひとも、好きとか嫌いとかでなく、したことがあるかないかのような、もっとデジタルな問い方をしてほしいです。これなら考えなくて済む。

大雨洪水秋葉日記

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この1分後にひどいことに。

メイドさんがいなかろうが秋葉へは行く(ってかまだいるはずなんですけどね)。携帯に届く警報メール、雨なんか降んの?って思いつついちおう傘持って外出。駅で降りて、まだ明るい、日が射している。書泉ブックタワーをひとまわり、して外に出たらなんだかもう真っ暗になっている。ラジオ会館へ向けて歩きつつ携帯で写真を撮ってみる。撮れてる?と確認する間もなくパラつき始め、あわててビルの影へ入る。と、もうみんな走り出していた。ラジ館に着く頃には傘無しでは歩けない状態。なのだけど、風が強くて傘があっても胸より上くらいしかカバーできないし、ビル風で傘壊してるひとも結構見ました。


今日買ったもの(と先週買ったもの)。


ひとひら 2 (アクションコミックス)

ひとひら 2 (アクションコミックス)

1巻は、これ面白いんだろうか?って思いながら読んでたけど、2巻でかなり面白くなった。


絶対×浪漫 (IDコミックス 百合姫コミックス)

絶対×浪漫 (IDコミックス 百合姫コミックス)

百合姫コミックス。この商品を買った人は「少女セクト(2) (メガストアコミックス)」や「くちびるためいきさくらいろ (IDコミックス 百合姫コミックス)」も買っています。


“文学少女”と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)

“文学少女”と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)

面白かったですよ。しかしシリーズものだったとはな。


環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)

環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)

パッと開いて見たページにこんなことが書いてあった。

しかし、一見かっこよく見えるこういった意見の最大の問題は、人間の生存のためなら牛や小麦を食べてもよいが、趣味や贅沢のために殺してはいけない、というトンチンカンな考えにある。人間の生存と遊びや趣味や贅沢が区別できるとの考えほど傲慢な思想はないと私は思う。牛など食ったことのないアフリカやアジアの最貧民からみれば、西洋人は趣味か贅沢で牛を食っているに違いないからだ。

ごもっともすぎる! 負けを認めてレジへ持っていく。しかし後で気づいたのだけど、この本は字が大きめでフリガナもついてる。ちくまプリマー新書ってそういうシリーズだったか。そしてぼくは肉を食う。なぜなら旨いからだ。ありがとう動物。


「私」はいつ生まれるか (ちくま新書)

「私」はいつ生まれるか (ちくま新書)

自己意識の発達過程を、猿や人間の子供に対する実験で探ってみました、という本。内からばかりでなく外からっていうのもいいかなと思って。