すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

我妙な事を思う故に我のblog有り

「故(ゆえ)」を辞書で引くと「わけ、理由」とある。だから「我思う故に我有り」ってちょっとヘンで、ほんとは「我有り故に我思う」なんじゃないの? 私があるからこそ、思ったり、他のことができるんじゃないの?って気がしませんか? (と思ってググると、そう考える人はやっぱりいっぱいいるようだ

では、なんでデカルトさんは「我思う─故に─我有り」って順にしたんだろうか。(ここ、ラテン語わかりませんので、日本語からの解釈です)

1.デカルトさん魔法使い説。つまり「我思う─」は空想具現化の呪文であるとする。私が宣言することで世界は成り、私も有るのだ、という表明。(この場合、有るのは別の「我」かも)
2.自己発見説。ほんとうに、「思う前」には「私はない」という説。確かに、「私」というのは自己を振り返るまでは「ない」。例えば何かを夢中になってやっている時には「無私」である。これを言ったものとする。
3.同時発生説。言語が1次元的性質を持つ関係で、いちどにひとつのことしか言えないため、ヘンに見えてしまう。本当は、思うことと有ることは同時に起きるので「我思う─」でも矛盾はないとする解釈。
4.勘違い説。単にラテン語の語順を間違えて、その後の世界に混乱をもたらすハメになった。(わざとだったりして?)

うちは2番だったら楽しいな〓と思ってるんですが。デカルトさんはお亡くなり中なので、実際のところを聞けないのが残念です。