すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

じじつのゆくえ。

じゃ、実験を始めますね〓。まず、宇宙を2つ用意してください(ちゃんと用意してくださいね!)。片方に、「南京大虐殺のあった地球」を入れます。もう片方は「南京大虐殺のなかった地球」を入れます。すると、「南京大虐殺の起きた宇宙」(宇宙A)、「起きなかった宇宙」(宇宙B)ができあがりますね。それぞれの宇宙のそれぞれの地球で、いろいろあるにしてもそれなりの生活たちが営まれていきます。


ここまででひとやすみ。


さて実験のつづきです。それぞれの地球で平和に暮らしているみなさんにはもうしわけないですが、ここで宇宙Aと宇宙Bから、いったん内容物をぜんぶ取りのぞいてしまいます。恒星からブラックホールから星間ガスから各種生き物までぜんぶです。からっぽの宇宙が2つできあがりますね。

わたしはここで、それでもやっぱり宇宙Aを「(かつて)南京大虐殺の起きた宇宙(だった)」、Bを「起きなかった宇宙(だった)」と呼びたくなってしまう気がするのです。なぜでしょう。この時点で宇宙AもBもからっぽで、かつ宇宙AとBはからっぽという点でまったく等しく見分けもつかないのに、です。


問いたいのは「“事実”というものはどういう形をしていてどこにあるのか」ということです。宇宙AとBに区別を見いだしてしまう人、Aを「起きた宇宙」と呼びたくなってしまう人は、たぶん、物理的現実を離れた客観的視点を、無意識に世界の外側に設定してしまっているのだと思います(もっとかんたんに言えば、その人は神様がいると思ってる)。

物質がなにもないからっぽの宇宙についても「かつて○○があった」と言えてしまうとするなら、“事実”というのは、物理的な現実とは無関係であり、なにかを“事実”として認識する主体の中にしかない、ということだと思います。つまるところ、「ある事実が『実際に』あった/なかった」ということは、ほんとうは言えないことなのです。さっきの実験をした人は、宇宙Aを「起きた宇宙」と言うかもしれません。しかし、あとから来て実験を見ていなかった人が2つのからっぽの宇宙を見ても、「同じだ」と言うしかないはずです。


そういうわけで、「南京大虐殺はあった」「南京大虐殺はなかった」のそれぞれの主張は、それぞれを“事実”とみなす人によってそれぞれなされてよい、と思います。実際のところはわからないので主張自体は自由でいいのではないかと。

ただ、「なされてよい」から「なす」のがよいかというとそれは別問題ですけれど。「あった」って言うと「なかった派」から殴られるだろうし、「なかった」って言うと「あった派」から殴られるだろうし、「どっちでもいい」なら両派から殴られるでしょう。というわけでわたしは、この問題については両派の意見に公平に耳を傾けつつ、関心を持って見守っていく所存であります(ぉ