すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

幸と不幸と。

ここ何日かのボクを包むぼんやりした多幸感の正体に思いをはせていた。やっぱりこりゃ、マツダさんのせいだろうな。ファンがアーティストに手紙を書いたところで、返事がもらえるどころか読んでもらえたのかさえ定かではないのがふつう。そんななかでボクは返事どころでなく、ハンパなく喜んでいただけたわけだ。絵までも。浮かれますよ。ボクはあこがれの先輩に手を振ってもらえた女子高生ですかと言いたい?(よくわからない疑問符) 思いが届くという経験はいいものです。最後に恋愛をしたのはいつのことでしたか。もうはるかに遠くで思い出せもしないなぁ。


現実にはボクは離婚問題を抱えていて、飲み会などでその辺の話をすると可哀想がってもらえたりする。というかおくさんから「祖母が死んで詫びろと言っている」などという話を聞いたりもする(それもなぁ)。不幸がここにあるのかな? でもボクは確かにいま幸福を感じているし、だから多分、幸福の反対が不幸というわけではないんだな、と考える。明るいと暗いは確かに反対だけど、甘いの反対は辛いではない。甘辛いという味があるのと同じように、幸福と不幸は独立した性質なんだと思う。

でないと、列車事故の遺族*1は、それをはねのける幸福を手に入れない限り笑えない、ということになってしまう。そんなことは許せないし、ここがそういう宇宙だったら住みたくない。いつ終わるのかわからないような悲しみや苦しみの中だって、ちょっとの楽しいことや、笑えることがきっとあるはずだし、ぜったいあると思う。世の中には悲しいことや酷いことや不正や無力を感じることが確かにいっぱい存在するけれど、そんなものは「いいこと」にはすこしの影響も与えることはできない、とボクは信じる。「いいこと」は絶対性を持っているのだ。

というわけで今日もマツダさんの絵を見る。すごいなぁ。ごはんは1回食べちゃえば終わりだけど、絵は何度見てもそのたびにもらえるものがあるもんね。減らないし。ってけしてごはん作りの才能が絵を描くそれより下と言ってるわけではないんですが。


もしボクが明日事故で死んだら、まちがいなく「事故で死ぬとは不幸だ」ということにされてしまうんだろうな。そんなことはないんだけどね。だってボクは確かにいま幸福で、なおかつ、いつ死んでも別に構わないと考えているんだから*2。それを宣言しておくので、ここを読んでるひとぐらいは、そのことを知っておいてください。幸福なヤツというよりただのおめでたいヤツなのかも知れないけどw いーじゃんかそれでー。

*1:事故の遺族もそうだけど、運転手や車掌さんの家族を待っているだろう不遇を思うとすこし胸が痛む。

*2:人生の目標も特になく、目標がないからやり残したこともなく、生に大した執着心もなく、世界に期待するものもなく、将来のことは考えないというより1週間以上先のことは考えてない。人生を“半分”降りるどころか、もう7割くらい降りてますw でも期待がないぶん逆になんにでも驚くしなんでも嬉しい。そもそもが生きてるだけでまるもうけ!だって考えてるんですけどね。でも下の本はこの記事の内容とはあまり関係ないです(ぉ 

人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)

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