すべての夢のたび。

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人は属性が10割

Zopeジャンキー日記 より 私は属性を信じない 私が信じるのは固有名詞だ


あ、おもしろい。自分と真反対の人がいる、と思いました。ぼくは固有名詞なんてどうでもよくって、属性で判断するひとだからです。しかし記事をよく読むと、どうも「肩書きより人柄だ」「外面より内面だ」系の言い方のバリエーションのひとつとして「属性より固有名詞だ」と言っているように感じました。

よく読むと、そもそも「属性」ということばの使い方がぼくと大幅に異なるので、対立はしないみたいです。ぼくは、およそ「私の○○」という言い方で語れるもの全てを「私の属性」と考えているからです。これなら、「私の作ったもの」や「私の書いたもの」「私の仕事」も「私の属性」になります。もちろん「私の血液型」や「私の出身地」「学歴」「勤め先」も「私の属性」です。

人間はたしかに属性を持っているが、属性から人間は合成できない。
属性はどこにでもあるが、その人は1人しかいない。


「属性」の用法の差異はあるのですが、ここがちょっと引っかかりました。ぼくは人間は「属性の束」のようなものと思っているからです。それぞれの「束」を識別するためのラベルとして「固有名詞」が貼ってあるイメージ。属性から人間が合成できないなら、では、属性のほかにあるものはなんなのか?

例えばなんかの試験で、同点が2人。面接して、一方は合格、一方は落とされた、とします。ぼくが試験官に「なんで落としたの?」と聞き、試験官が「んー、“人”かな?」と言ったとします。したら、ぼくは試験官を「言語化をサボっている」と判断するでしょう。「人」。そんなあいまいな基準でバツ喰らっちゃたまんねえ。どこがダメだったのか、ちゃんと言語に落とし込んで説明しろ、手ェ抜くな、と思うでしょうね。

まぁ、でもいいんです。それでも。言葉にならないものがあるんだよ、でもいい。感情より論理が優勢なこの世の中で、非論理的なものの存在を認めざるを得ないとしたら、それもいとおかしだなーと思いますので。


ちょっと批判ぽい内容になったのでトラックバックしておきます。もちろんそのヒハンは記事(属性)に対してであって、書いた人(固有名詞)に対してではありません。