すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うとつまらない答えばかりが返ってくるのか?

4日のエントリにのび太さんよりコメントを頂きました

ま、いろいろ考えるのもいいけど、命は繋いでかなきゃ、意味ないよ。今、君がいるのは、君の親が君を生み育てたからで、君が一人で大きくなったんじゃない。
君は君の命を所有している気になってるかもしれないが、君(個体)はたとえていえば、人体の細胞のひとつでしかないと思う。君の人生自体に特別大きな意味はないよ、それより命をまわしてくことに励んだほうがいい。それが僕らの使命だし、生まれてきた「理由」ですよ。ほかの形でみんなのために寄与するという手もあるが、再生産がストレートで究極の寄与だと思うよ。とにかくゲームで週末つぶすようなおこちゃまな週末とはおさらばした方がいいように思います。
大人になって、覚悟決めて、何もしない・できないのに聞いた風なこと垂れ流すのはやめたどうか?ちょっと情けない。
親になって、「向こう側」を覗いてみなさいよ。


これを読んで、表題のようなことを考えていたわけです。

  • なぜ人を殺してはいけないのか?
  • なぜ自殺をしてはいけないのか?

どうしてこのような倫理的な問いに対する回答は、面白味のないものが大半を占めてしまうのか? というのが今までよく解らなかったのですが、今日になって理解することができました。もしかして当然なのかも知れないけれど、自分には発見だったので、書いておきます。

つまり、倫理的に正しい回答というものは、多数派である。多数派であるということは、一般論である。一般論であるということは、誰もが聞かされて育ってきたということであり、要するにありきたりであり、つまるところ面白くない。なるほどそういうことか、と。

というわけで、倫理的に正しい主張をしようとすればするほど、ありきたりなことしか語れなくなってしまうわけです(正しいことを言うのが恥ずかしい理由の一部はここにあるのかも知れない)。


「倫理的に正しい回答は多数派である」は、原理的にそうでしかありえません。なぜかというと、実際には逆で、「多数派の採用するルールが、倫理的に正しいとされる」ことになっているからです。現に社会は成立しているのだから、そこで多数派が採用しているルールが正しいとされるわけです。

そして現在は成長が礼賛される時代ですので、「人を殺してはいけない」「自殺をしてはいけない」ということが倫理的に正しいとされています。しかしこういうことも言えます。先日「2020年問題」という話を本で読みました。地球上ではその頃から1人あたりに供給される食糧や資源は減少に向かう、ということだそうです。そのような時代に入ったとき、「特定の場合には自殺をするべきだ」ということが「倫理的に正しい」とされる可能性は、ありえると考えられます。

『人の親になって解るのは「肉親の命は大事だが、それ以外はそうでもない」程度じゃないでしょうか?(世の中を見ていると、そう感じます)。判断力がにぶりそうな気がします。』
↑これは相当恥ずかしいし、高慢だよ。親は秋葉通いのヲタよりアホだって言いたいんでしょ。さーどうかなぁ。世の中、そうは見ないだろうよ。』


これは言い過ぎかなぁと思いますね。わたしの両親は人に誇れる、とまでは言わないですけど、わたしは尊敬しています。わたしの倫理感覚が歪んでいるのは、両親の責任ではなく、すべてわたし個人の責任です。高慢という自覚はあるので「高慢だ」と言われたところで「そうですね」としか言えないのですが。