すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

それぞれが勝手に話を進めるの図

「ああっ、こんな日記を巡回先に入れていただいている(らしい)有名ニュースサイトの管理人様がコメント欄に長文コメントを!」とか書こうと思ったんですがこれはひどいので止めました(いやもう書いてる)。

さて、コメ欄からおもっきしまるごと引用してしまいますが。議論っていうか雑談と思っていただいたほうがいいと思います(議論に値するような題材ではないし、反応したい部分にしか反応しないし、自分はおそらく相当のことがおきないと考え方は変わらないと思うので)。

輪王ひろみ 『神の定義によります。全知全能の神は、論理的に存在しません。有限の有能な神なら、存在しえますが、世界がエレガントから離れます。無能な神は、神とは言えないでしょう。』

michiaki 『>全知全能の神は、論理的に存在しません。
しかし論理が世界を覆い尽くしてるわけでもないですからね。覆えないスキマがある。って話にしちゃうとそもそも神がいるいないを問う意味もなくなっちゃうか。あの設問で聞かれてたのは、キリスト教的な神のことだとは思います。

全知全能はない、というのは、いわゆる「矛盾」の話ですか? でも「矛盾したもの」は論理的には有り得なくとも、人間の脳はそれを取り扱えます。コンピュータみたいに論理を直接実行するものではなくて、人の脳は言わば論理のエミュレータですから。だから「この文はウソだ」みたいなものを突っ込んでもハングアップもしないし無限ループにも陥らないわけで。』

輪王ひろみ 『> 覆えないスキマがある。
パッチワークな世界ですね。仕組みが違う世界が連結しているなら統一理論がある筈です。連結できないなら干渉できませんから存在しないと一緒です。

「全知」が困難であるのは、干渉することなく観測することはできないからです。
全てが記されているというアカシックレコードが存在するのであれば、そのアカシックレコード自身のことはアカシックレコードに記されているのでしょうか? 容量を無限にすればそれ自身含められるかもしれません。しかし容量が無限になった場合、そのレコードをキチンと検索することはできるでしょうか? 整数の無限であれば、単に前から後に検索し途中で止める方法がありますが、有理数であればどうでしょう? 回答を言えば、整数の分数で表せる有理数は整数で覆い尽くすことができます。しかし無理数はどうでしょう? 残念ながら無理数は整数で覆い尽くすことは出来ません、無限の次元が上なのです。
まあ、世界の情報量と無理数は直接関係することではありませんが、無限にも次元があるという1例です。この無限の次元も2つだけではなく更に上があります、しかも無限に。

人間はメタ的に考えられるからと言ってゲーデルの不完全性定理を超えられる訳ではありません。単に途中で思考停止しているだけです。同時に人工知能がメタ的に考えられない訳でもありません。
私は、人間の知能と人工知能の間に断絶は無いと思っています。
無限ループに陥らないだけなら、時間で区切るなど方法は幾らでもあります。

神がこの世界に干渉するのであれば、世界と連結し1つの系になり、神は世界の一部となり全知全能ではなくなります。全く干渉しないのであれば全知のままで居られるかもしれませんが、全く干渉しないのであれば我々にとっては存在しないのと同値です。』


ぼくが「しかし論理が世界を覆い尽くしてるわけでもないですからね。覆えないスキマがある」って書いたのは、ウィトゲンシュタイン的(権威の引用で賢く見せる手法)なあれです。前期の「論理哲学論考」の立場(「言語は世界を写し出す像である」)は後期には捨て去られたわけですよね。「世界には言語で表現できないものもある」という程度の意味です(論理は言語の一部として考えてます)。極端な話、「モナ・リザ」を言語で100%表現できるなら、絵そのものはいらないわけです。言葉で全部を伝えられちゃうんですからね。今は表現が下手だけどいつかはその境地に、って話でもない。

さて、以下はアカシックレコードの話などをいたします。このあたりで賢明な人は読むのを中断されることだろうと思います(でもいちばん賢明な人はそもそも最初から読んでない気がする)。

まず、「世界の全てが記されているアカシックレコード」は可能か?ということを考えてみます。世界の大きさが有限なら、不可能でしょう。アカシックレコードが世界内に存在するのであれば、部分と全体の大きさが等しいということは有り得ない以上、「全て」を記録することはできません。それが世界外に存在するのであれば可能かも知れませんが、今度はそれにアクセスすること自体が不可能でしょう。世界の大きさが無限なら……可能なんですかね。どうなんだろう。部分(アカシックレコード)と全体(世界)は濃度が違うんじゃないかって気がします(これは輪王さんの仰っている通りです)。

もうひとつ、アカシックレコードは有り得ないんじゃないか、という考えを。それは「記録って言われても、それは何語で書かれてるんですか?」って話です。つまり、「アカシックレコードの読み方」自体をアカシックレコードに記録することはできません。エンコードされたデータだけ渡されてもデコードプログラムがないと意味がない。PCに例えて言えば、「メモリの全領域を圧縮してメモリの一部に吐き出す」「メモリ上のデータをメモリの全領域に展開する」プログラムを書けるか?ってことになります(もちろんプログラム自体もメモリ上に存在します)。世界がノイズでない以上は圧縮は可能ということでいいとは思います。しかし、これが可能としても、それでもなお世界(メモリ)の外側にCPUが必要です。データの解釈方法は世界内には書けないわけです(あ、「語り得ないもの」みたいだな)。

可能な方法はあるかもしれません。メモリ全領域を手を加えずにそのまま渡す、つまり「これがアカシックレコードだ」と言って「世界のコピー」をまるごと渡せばいい。これなら情報量は同じだし解釈系も不要。しかしそんならコピーなんて見ないでもオリジナルを見ればいい。つまりこの世界が世界であると同時にアカシックレコードでもあるというわけです。ここに於いて「知るもの」と「知られるもの」はひとつの「知ること」となり……云々(寝言ですので)。

人工知能のことを言えば、自分は将来それができるとしてもいまの技術の延長線上にはないと考えています(人工知能は複雑なプログラムの一種だとします)。理由は、人間は人間が知っていることしかプログラムとしては書けませんが(あたりまえだ)、人間は人間について全てを知っているわけではないからです。つまり人間が人工知能っぽいプログラムを書いても必ずそれは人間の知性よりは小さなものになります。偶然、何かが作れてしまった、というケースなら有り得るかもしれませんが。それか、自己改変型のプログラムが成長するのを待つ、みたいなSFっぽい話になるんですかね。


と、こんなことを考えていました。