すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

感動の「貴賤」とは

ごく最近、ぼくの「考え続けたいこと」に加わったので、自分でもまだよくわかっていないことについて書きます。「涙の理由」の81ページ後半から2ページ分程引用。小説家重松清氏と“脳科学者”茂木健一郎氏の対談です。

重松:「小説や映画での感動」と、「音楽を聴く」や「絵画に出会う」感動は違うような気がする。実は音楽で泣いたことがないんだよね。ニューミュージックの歌詞では泣くんだけれど(笑)。クラシックで魂が震えたことって、僕はないんです。茂木さんは相当あるよね?
茂木:そうですね。ほんの少し(笑)。
重松:茂木さんがモーツァルトで感動するのは、どういう心の動きですか?
茂木:島田雅彦が――あいつは時々面白いことを言うのですが――「文学と接点を持てないと偉くなれない」と。要するに、生きること、人生のブックキーピング(帳簿付け)を考えたとき、音楽や美術・アートは、パーツになる。たとえばアート界の偉い人の「偉さ」は、小説家、文学の世界の偉さ――というのも変だけれど――、ある種の重みと比べると一段落ちる。島田はそう言いきる。リアルなことだと思った。重松さんが言われたことと関係するんだよね。小説を通して得られる感動・涙は、特別なものなんだよ。モーツァルトやバッハでさえ文学の領域まで行っていないのかもしれない。
重松:僕は逆に、「個人の人生の体験や、社会・歴史の文脈があって成立するのが小説の感動」で、音楽はそれが抜き。僕はそっちのほうが、社会化できない分、プリミティブで深い気がするんだけど。
茂木:なぜ、文学や小説が我々の実存においてセントラルな位置を占めているのか。バベルの塔以降、世界は六千の言語に分裂して「お互いに不可視の領域」を築いてしまっている。「だからこそだ」という気がするのです。音楽は普遍的だから、かえって我々の自我に深く入ってこないんじゃないか。「外から見えない・不可視であること」と「人格に入り込んできている」ことは、「同じことではないのか」と。「万人にとっての共通のもの」は、逆説的だけれども、自我の深いところまでは行けないのだと思います。


ここで茂木氏により語られる小説家島田雅彦氏の言葉が問題です。音楽・美術で得られる感動は、小説のそれに比べると「一段落ちるもの」だ――。そんなことを言われてしまい、ぼくは「受け容れ難い」と感じました。そして逆に、直感的に、受け容れ難いのはおそらくそれが真実であるからだと気付きました。


エントリタイトルでは「貴賤」としましたが、「感動」には、より「貴い」種類のものがある。「賤しい」は言い過ぎですが、より高級なものとそうでないものがある。これでも言い過ぎかも知れませんので、次元の異なる(より高次の)ものがある、ということにしておきましょうか。

では、どういったものがそれ(Aとします)で、どういったものがそれでない(Bとします)のか。文学だと例を挙げやすいのでしょうが、あまり知らないので……他のジャンルでいってみたいと思います。たとえば18禁のエロゲーですと(いきなりですか…)、いわゆる普通の「泣きゲー」、これはよく泣けるぜ〜ってゲームで得られる感動は「B」の感動。対する「A」の代表は、keyのAIRとか。ややマイナーですがぼくの好きなゲームにSWAN SONGというものがあるのですが、これだと初回のエンドが「A」で、2回目のエンドが、トゥルーエンドということになってはいますが「B」です。SWAN SONGは鬱ゲーで、初回エンドは頭をひっぱたかれるような終わり方で、2回目エンドは“ややハッピー”エンドなんです。プレイした当時のぼくは2回目エンドを余計なものと考えていたんでした。多分商品性の確保のために2回目エンドを付け足さざるを得なかったんだろうなと思った。

映画だと、やっぱりぼくの好きな奴を挙げてしまうと「セブン」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は「A」ですね。ディズニーは「B」(笑)。よくあるハリウッドものとか恋愛ものとか動物ものとか解りやすいのは「B」。でもいま話題の「ウォッチメン」はどうやら「A」らしいので是非観たいなと思います。アニメならエヴァや攻殻SACは「A」かな〜と思うんですが、攻殻は最後をBで〆る感があるのにエヴァはTVでやっても映画になってもAのままですね。


音楽の感動は「B」であるということ。これはどういうことか。例を挙げてみます。


D


ダフトパンクのライブ。いいですよねー。ぼくもライブ版のCDをWalkmanに入れてて外歩きながらずっと聴いてたりします。ダフトのライブはいい、すごくいい。でも、うん、ダメなんだ……って話です。どこがか? おそらく、気持ちいいところが、自然に体が動いてしまうところがです。「快感原則」「快楽原理」に直結してるものは、「B」故にダメなんだってことです。

ぼくは世の中からもう半分以上降りてまして、自分の好き勝手に出かけて、好きなことをしたり、美しい物とか景色とかを見たり、好きな曲を聴いたり、おいしいものを食べたり、そういうことだけをして生きて行ければいいなぁと考えていました(実際それにかなり近いことをしていますが)。そういうものだけを追求していこう、自分が気持ちいいと思えるものに忠実になろう、それでいいんだ……と思っていました。ですが、茂木のヤツめが…それではダメなんだぜと抜かしやがりまして。そしてぼくは彼の言うことが正しいと深いところで一瞬で理解できて、いや、理解させられてしまった。結構な衝撃でした。価値観が根底に近い部分でひっくり返されてしまい、バラバラに散らばってしまったそれらを今も積み直そうとしている真っ最中なのです。


なんで「B」の感動ではダメなのか? かんたんに言うと、ぼくは人間だからです。「A」の種類の感動、文学的な感動とは、ぐにょぐにょしていて、曰く言い難く、ものすごくって、得体が知れず、戸惑い、打ちのめされたり、足下がぐらついたりする。そういう種類の感動は、人間にだけ起こるものだからです。「B」の感動なら、気持ちいいねーという感動なら、動物でいい。親子の情とか友情とか、助け合うことの大切さとか、暖かいとかほっとするとか、ハッピーエンド、言葉はいらない――とか、そんなものをお望みなら、あなたは動物でよかった。人間に進化する必要はなかったんだろうと思う。

いや別に動物でいいんじゃね……?と言われると、実際は特に反論する言葉は思い浮かばない。例えばそれは、人生に意味はあるのか?と問われて、ねーよ、意味なんつーそんな概念ができる前からヒトは生きていたさ、と返されることであり、そうなのかも知れないとも思う。しかしぼくは意味を求めるし「A」を求める。それは、それがぼくに許されているからそうするのだと思う。動物だったらできなかったことで、人間だからこそできる(かもしれない)ことだ。それを追わずしてなんとするのだ、ということです。


なにか、何のことだか、少しは伝わったでしょうか? 自分でもまだよくわかっていないのですが。