すべての夢のたび。

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自分とは何でないか?

「自分」について、ほとんどの人が勘違いしていることがひとつあります。それは何か? みな「自分の記憶」のことを「自分」と混同してしまっているのです。

多くの人が「自分の記憶」を「自分」と思っていることは、例えばフィクションの中に見て取れます。過去や並行世界に移動したり、世界が改変されたりしても、主人公の記憶は、通常その前の状態から連続するように描かれます。よくあるパターンの、男の子と女の子がぶつかった拍子に入れ替わってしまうというネタでも、実はそこでは記憶ごとの入れ替わりが起きているのです。一瞬前まで男の体に入っていたのになぜか今は女の子の体だ、こりゃおかしい、となるわけです。記憶が前の体から持ち越されなければ、そもそも入れ替わったことに気づかないわけですから。

しかし、「自分の記憶」というこの「〜〜の◯◯」という言い方に、問題が隠されているのです。

「〜〜の◯◯」という言い方で語られるときの「◯◯」は、〜〜の属性や所有物です。自分の手や足。自分の性別・年齢。肌の色、髪の色。自分の服や本やCD。自分の住んでいる所。自分の肩書き。自分の好きな人、等々。これらの「◯◯」の特徴は、入れ替え可能なことです。つまり、それが変わったり、なくなったりしたところで、自分が自分でなくなる、ということはありません。持ち物や住んでいる場所が変わったって自分は自分です。年を取ったり、都合で性別が変わってしまったりしてもやっぱりそうでしょう。仮に手や足がなくなってしまったって自分は自分に違いありません。

では「自分の記憶」がなくなってしまったらどうか? 多くの人はそれを恐れています。例えば、もし生まれ変わってもその前の記憶がないんだったらイミないよね、などと言う。でも、今こうして生きていても、交通事故や脳の病気で記憶を失う、ということはあり得るわけです。仮にそうなった時のことを少し想像してみて欲しいのです。あなたは、自分が誰であるかはわからない。しかしそれでも、取り敢えず生きて行くことに困りはしないでしょう。食事の仕方は解るだろうし、疲れたら休むし、眠くなったら寝るでしょう。そして今と変わらず、両の瞳の奥から世界を見つめ続けているに違いない。それで何も、問題はないのです。だいたいあなたは、今の自分として生まれる前の記憶を、実際すっぱり忘れてしまっているじゃないですか。

記憶がなくたって自分は自分なのです。従って「自分」とは「自分の記憶」ではあり得ない。(「今の自分として生まれる前の記憶」云々は冗談です)

それでは「自分」とは何でしょうか? 記憶を取り去ってもまだ残るものは何か? ここでの仮の答えは、それは「視点」である、というものです。それは記憶とは別物です。だから、視点のみが入れ替わる、ということは考えられる。女の子と男の子が出合い頭にぶつかったとき、もしも視点だけが入れ替わったらどうなるでしょうか。女の子の体に入ってしまった男の子の「視点」は、そのまま彼女の記憶を利用して、彼女として生きていくでしょう。第三者から見れば、これは何も起きていないに等しい。いや、本人たちから見ても、何も起きていないと同じなのです。ぶつかる前後で体が違うぞという記憶の不連続が発生しなければ、視点が変わったことに気づきようもないのです。

というわけで、もしかしたらあなたの「視点」も、寝てる間に夜な夜な体を抜け出たりして、誰かの視点と入れ替わり、別な人物として今日を生きたのかもしれない。いや、そんなことは絶対あり得ない? 昨日も、一昨日も、その前も、子供の頃の記憶だってあるって? だってそんなの単なる「記憶」じゃないですか。あなたは、昨日も一昨日もその前も自分は自分だった、という知らない誰かの記憶と共に毎朝目を覚ましているに過ぎないのです。