すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

コメントへのレス

tokyocatさん

読んでいただき、またコメントをいただきましてありがとうございます(実はtokyocatさんは、この手のエントリを書くときの想定読者のひとりに入っていますw)。

ぼくはそれこそもう子供の頃からこういった問いについて折に触れて考えており、最近では「自己とはただの視点かつ受動的なものに過ぎない」という考え方を、単なる知識ではなく実感として感じられるようになっていました。今回さらにそれに「自己とは現象であり非連続的なものである」という考えが付け加わった感じです。

ただ、今回の「現象であり非連続的」については、まだまだうまく実感できているとは言えません。自己は確固として存在する連続的なものだ、という幻想は非常に強力なものです。それこそこの世界を支配している幻想であり、自分もまた何十年もその影響の下に暮らしてきたわけですから。しかし、今回の自分のこの考え方こそが真実に迫るものなのだ、という確信はあります(そもそも新しいことを言っているわけでもないですし)。

自分も同じように、ほんとうのことを知らないままで終わりたくはない、と思っています。知らないでいる方がこの世の中を生きていくにはおそらく良いのでしょうけど、そういうものと引き換えにしても知りたいのです。


naftaさん

こんにちは、初めまして。いっぱいのコメントをありがとうございます。自分の考えていることを少しお話させていただきます。あまりまとまったものにはならないと思いますが。

デカルトについてはこの日記でも何回か言及しています。そのものずばり、「我思う故に我あり」についてです。そして、まず最初に絶対疑い得ないものを見出すのだ、として、その結果「我」を発見したデカルトの方向性は基本的に正しいと思っています。ただ、内観を探求手段の中心としたデカルトより、脳科学という強力な武器を手にした現代の科学者・哲学者・心理学者のほうがより真実に近づきつつある、というだけかと。(それを考えると釈迦が空恐ろしくもあるのですが)

カントについては、すみませんよくわかりません(笑)。カントの言うとおり、自己の存在する感じは「経験的命題であって、これ以上分解できない」ということが真実である可能性もあると思っています。いわゆるハード・プロブレムが元々解けないものである可能性ですね。実際、世界には、「単にそうなっているのだ」としか言い様のないものがいっぱいあります。陽子と中性子と電子が集まるとなぜか原子になるとか、光の速度がなぜか一定であることとか。最終的には、なぜ宇宙があるのかとか。クオリアもそういうものであるかも知れません。(ただ、もうちょっと説明するアイデアを先日思いついたような気が……するのですが、いまは忘れてしまいました)

量子論との絡みについては、当然あると思います。先日も「植物は光合成で量子効果を利用していた」みたいなニュースがありましたが、脳の中でもそういったことは行われているのではないかと思います。ぼくが自己を「単なる視点」と考えていることと、量子論の観測者の概念はどこかでつながりそうです。でもまだその辺はよくわからないですね。あと多世界解釈はぼくは冗談の一種だと思っています(笑)。

宗教的と言えば、実は宇宙には意識はひとつしかないのだ、と言った人もいます(誰か忘れましたが)。それがほんとうであるとすれば、宇宙はぼくやnaftaさんを通して自分自身と会話し、自分についての理解を深めているのだ、ということになります。そういう考え方もまた面白いかなーと思います。面白いだけでなくほんとうかもしれません。

とりあえずこんなところで。よろしかったらまた暇な時にでも覗きに来てくださいませ。