すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

神と科学

最近のぼくは科学寄りです。大昔(子供のころ)のぼくもそうでした。神なんて存在しない、世界は計算できると考えていた。そのあといろいろあって(成人して)、神はいるのかもしれないと考えるようになり、オカルトやスピリチュアル、超常現象などにも興味を持つようになりました。

そしてまたいま、揺り戻しがきて科学寄りになりました。世界の中のことはほとんどなんでもすべて、科学で説明できるんじゃないか、そう考えています。でも、では、神の出番はなくなってしまったのかというとそうではなく、それはそれで併存している感じ。そこが昔の考えとはちょっと違うかな。存在するかしないかはきっと最後までわからない、でも、いても問題はない。科学と矛盾しないかたちで、滅多に姿を現さないけれどもいざというときはトランプのジョーカーのように全部をひっくり返すことができる、神はそういう在り方をしてるってこともあるんじゃないか、などと考えています。

アメリカとかどうなってるんでしょうね。ヨーロッパでは神の存在を信じる人の割合は年々低下している、と聞きます。でもアメリカはそうではなく、科学でも先端なのに、キリスト教国としても非常に保守的だったりする。イスラム教徒ですら無宗教者よりはまだマシと考えている国。おもしろいですよね。ぼくはアメリカを、科学的な人と宗教的な人の両方がいるんじゃなくて、ひとりの中でそれらがうまく共存できている国なんじゃないかと想像しています、それはそれこれはこれと。実際どうなのかは知りませんが。

日本はどうなんだろう。日本は、けっこう宗教アレルギーのケがあるような気がします。明確にどこかの宗教に入信していることを隠さない人以外は、あまり「神様を信じている」とか言わない、言えないような雰囲気がある。そんなこと言うと変な人と思われそうな。でもそのくせ初詣や葬式には行くのですが。そしてそこをツッコまれても、なぜそんなことを言うの?とぜんぜん矛盾に感じていないような顔をするところも面白い。

ぼくも、神の出番なんて不要なくらい、すべては科学で説明できそうな、そんな気はしているんです。でも、たとえば、"聖"って概念がわかるというか、染み付いていてもうぬぐえないんですよね。他の人もそうなんではないでしょうか。鳥居をくぐって神社の境内に入ったら、そこでは騒いではいけないことはわかる。死者を冒涜してはいけないこともわかる。霊とか生まれ変わりとか、そんなのねーよと思っていてもそうでしょう?

それよりなにより、祈ることをしてしまう。"うまくいってくれ!"と念じてしまい、うまくいくと"ありがたい"と感謝してしまう。それはいったい誰に何に向けられているのか?と思うんですよね。祈念や感謝は対象が必要な行為のはずです。ではその向かう先はなんなのか。信じていないと公言する人でも、祈るという行為自体をしたことがない、祈るって何?という人はあまりいないのではないかと思います。

人間には先験的認識というものがあります。数や、時間空間、そういう概念は、生まれてから習って獲得するものではない。前もって解っていないと、そもそも世界を認識することができないわけです。それと同じように、もしかしたら神という概念も先験的認識なのではないか、あらかじめぼくらは大いなるものへの畏れを識った上で生まれてくるのではないか、最近そういうことをちょっと考えました。もちろん、それがあることとそれがいることはまったく別のことだと思いますが。仮にそれがあったとしてもなんの証拠にもならないと思う。

で、ぼくはきっと、神様なんて信じていない僕らのための宗教を、やってみたいのかもなーなんて思っています。来世はない。生まれ変わりなんてない。魂なんて嘘。人は死んだら終りだ。無だ。でも、大丈夫なんだ。心配することはないんだ。そのことを神なしに科学の言葉だけで記述してみたいのです。そういう誘惑と、それはたぶん可能だろうというぼんやりとした確信がある。なぜならそれはもうぼくの中にあるからです。これをなー、うまく言えればいいんだけどなー。そんなことを考えつつ、もうだいぶ時間が過ぎてしまいましたw そろそろ取り掛かるべきなんじゃないだろうか。なんて。