すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

猫と猿と人

文体(というか文末)が苦手なので、地下猫さんのエントリはブクマされてても普段は読まないのですが、今回関心ある分野だったのでがんばって読んでみました。

「人間とは何か」京大霊長類研シンポジウムレポート(前)
「ありもしないものを見る」のが人間@京大霊長類研シンポレポ(後)

前編と、後編の半分くらいまではレポートです。うちの日記を読んでるような方ならきっと面白いと思うのでお薦めいたします(でも「あわせて読みたい」に時々出てくるくらいだから、言われなくてももう読んでるかも?)。

後編にちょっと出てくる「呪術」というキーワードがよくわからなかった。のでTwitterに投げてみた。

地下猫さんのいう呪術ってなんだろ。物語とは違うのか。まあいいか。


さっそくcrow_henmiさんからリプライをいただく。いつもお世話になっております。

雑に言えば物語に類似してます。価値合理的な方向性を指し示す「価値」がこの場合の呪術、だったと思います。つまり「神の教え」「社会の規範」「家族の絆」とかですね。ちなみに後者2つは後期近代において解体されてきた価値です。呪術は近代化=脱呪術化により解体されます。

「なぜころ」とかはいきすぎた脱呪術化の結果寄り添う価値=規範を喪失した人がそれでも「なぜ」を問う精神的運動としてありうる、とか思わないでもないです。たぶんそこで「なぜ」と問わなくなれば例外人となり社会から完全に逸脱するのではないかと。


なんとなくわかった気になる。"だつじゅじゅつか"とか舌噛みそうですが(笑)。そしてぼくは「なぜころ」については「なぜ」を止めたので、社会から逸脱しつつあるのでしょう。いまさらですか?


いろいろな問いについて「なぜ」「なぜ」を繰り返していくと、必ずどこかで行き止まりになります。ぼくらは神ならぬ人であるため、それ以上は「わからない」、進めない地点があるのですね。そして、どんな問いでも「なぜそうなるのか」を考えて行くと、大抵似たような地点に行き着きます。

その地点があり、どうせそこへ辿りつくことが解ってるのだから、最初からそこを考えればいいんじゃん、というのが最近のぼくです。それが、「人間とはなにか」「脳とはなにか」「自分とはなにか」だったりするわけです。で、ぼくはそのことばっかり考えるはめになっている。


地下猫さんのお話にもどる。猫さんのいう「呪術」をぼくは「物語」と言いました。いつかちゃんと書きたいなと思っているのですが、この「物語を作る力」が、人間の脳には強力な癖のようなものとして存在するらしいのですね。猫さんは、チンパンジーはそこにあるものしか見ないが、人間はありもしないものを見る、と言っています。人は過去の出来事に物語を見い出して、それを未来の予測に使うことができる。なぜこういった力を持っているのか、ではなく、こういった力を進化の途上で持てたおかげで、競争上優位に立つことができたのでしょう。

エピソード記憶を行うために物語は作られる。そして物語を作るためには俯瞰的な位置からの視点が必要、ということで、これが自己意識の発生に繫がったのではないだろうか、と、そういうことを言う本があり、ぼくもその主張に傾きつつあります。