すべての夢のたび。

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『意識』スーザン・ブラックモア

意識 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

意識 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

  • 作者: スーザン・ブラックモア,筒井晴香,信原幸弘,西堤優
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/02/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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現代科学と哲学に残された最大の謎「意識」。リベットの実験を初めとするさまざまな科学的知見によって、意識に関する従来の考え方は近年大きな変更を迫られている。「意識」とは、われわれが必然的に抱いてしまう錯覚なのか? 脳科学・認知科学の最新成果を踏まえて「意識」や「自我」に関する基礎的・哲学的問題を平易に解説する。


著者スーザン・ブラックモアの名前を見て、本持ってレジへ直行しました。以前に読んだ『「意識」を語る』が非常に良かったので。16人もの意識研究の大御所の科学者・哲学者・心理学者等にインタビューし、意識やらクオリアやら自由意志やらについて語ってもらった本です。彼女の凄いところは、それぞれの人の主張について深い部分で押さえ、言わんとするところを掴んだ上で更に核心に迫る質問をしたり、痛いところを突いてまごつかせ隠れた本音を引き出したりできるその手腕です。非常にスリリングな本でした。

で、この本は、そんな彼女によって「意識」についてのいろいろな"考えられ方"がコンパクトにまとめてある本です。現在の意識研究のトレンド全般を押さえている人だから書ける偏りのない解説が、入門書としてとてもいいんじゃないかと思います。

けれどですね、そうやって油断していたらやられた。彼女もただのサイエンスライターではなく、意識研究に携わるいち心理学者なのです。最終章も終り近くになり、諸々の主張を踏まえた上での彼女自身の見解が明かされる。それが、ぼくが意識について抱いているイメージと非常に近かったのですね。そして、まぁ当然か、語り口はずっとスマートなわけです(笑)。

でもおいしい部分をまるごと引用というのもどうかと思いますので、コアの部分を少しだけ。

 私たちがたどりついた混乱は、深く、深刻である。私は、意識についての通常の考え方に潜む根本的な欠陥が、この混乱によって顕わになっているのではないかと思う。ひょっとすると、私たちは最も基本的な仮定を捨て去って、一から始める必要があるのかもしれない。


こんなにも「意識とは何か?」について考えることが難しいのは、もしかしたら前提からして誤りがあり、間違った問いを立てているせいではないか?と彼女は言います。そして「経験する"誰か"がいなければ経験自体有り得ない」「観念・感情・イメージ・知覚などが"意識的な心"の中を流れて行く」という、普段当然と考えている(というか、そうとしか考えられないまでになっている)ことを捨て去らなければならないと言います。

 こうして私たちはある新たな出発点から始めることになる。今度の出発点はまえとはまったく異なる。すなわち、観察可能なもののなかで最も単純なもの、つまり私が自分自身に「私はいま、意識があるだろうか」と問えば、答えはいつでも「はい」であるという事実から始める。


これは、つまりデカルトですね。コギト・エルゴ・スム、「我思う故に我あり」です。だから我はあることは疑い得ないとデカルトは言ったのです。けれど彼女は続けて言います、それは違う、と。

 しかし、そのほかのときは、どうなのだろうか。おかしなことに、私たちにはわからないのである。問いを問うときはいつでもイエスの答えが得られるが、問いを問うていないときについては、問うことができないのだ。(中略)。それはちょうど、冷蔵庫をすばやく開けて、なかの明かりがいつもついているかどうかを見ようとするようなものだ。明かりが消えているのを見ることはできないのである。
 こうして壮大な錯覚が生じる。私たち人間は、話したり考えたりする賢い生き物であり、「私はいま意識があるか」と自分に問うことができる。そして得られる答えはつねに「はい」であるから、私たちは、自分にはいつも意識があるという誤った結論に飛びついてしまう。あとはすべてここから生じてくる。私たちは、目覚めているときはいつも、何かを意識しているにちがいないと考える。なぜなら、問うたときにはいつも、たしかにそうであったからである。そこで私たちは、この結論に合う比喩を作り出す。つまり、劇場、スポットライト、意識の流れといったものだ。しかし、私たちは間違っている。完全に間違っているのだ。


スーザンの見解はこうです。私たちは自分のことを意識するときだけ、意識がある。その他の時には、意識はない。そう考える事で、意識についての混乱した諸問題の大半は消え去ってしまうことがこの後で示されます。ぼくも思うんですけど、このことは経験にもマッチしてるんですよね。なにかに夢中な時、ぼくらはただ行為すること、行為そのものになっています。スポーツをするのでも、マンガを読むのでも、考え事でもいい。ただ行為だけがある。そしてふと、「我に返る」のです。我に返るまで、"自分"はどこにもないのです。

冷蔵庫の例えはうまいですよね。実際、"「私はいま、意識があるだろうか」と問えば、答えはいつでも「はい」であるという事実"から"私たちは常に意識がある"という結論を導き出すのは論理的に誤りなのですから。冷蔵庫のドアを開けたときにいつも明かりが点いてるからといって、それは常についていると考えていい訳ではない。ただ、だからといって「消えている」ことも導き出せはしませんが、意識の場合には、普段は「ない」と考えた方が適切、という状況証拠が揃いつつある感じ、だと思います。(そもそも、それは多くの生物について「ない」と考えられているものなのですし)

脳・意識関係の本として、お薦めかも。先に『脳の中の「わたし」』を読んでおくともっといいです。