すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

Apple新製品


はい。ということでいろいろ出ましたけれども今回は見送りです。いや、いろいろってほどは出なかったのかな。iPhoneとApple Watchだけですよね。Macがらみはなかった。

iPhoneなんかは事前にほぼどんなものかわかってました。わかんなかったのはFelica使ったサービスがいつから始まるのかとか。来春などという噂もありましたけどすぐ始まるみたいで。これは意外だった。もっとも交通系だとSuica以外のたとえばPASMOなんかはまだ未定らしく、つまりはJR東日本の区間を含まない定期は使えない、ということになります。まぁいずれは対応せざるを得ないと思いますが。

Apple Watch Series 2にはGPSが入りましたね。これが何を意味するかというと、時計単体で位置情報が取れるので、例えばランニングに出る時にiPhoneを一緒に持ち歩かなくてもよくなった、ということです。あとで接続すればどこをどう走ったかというログは見られる。

あと時計にもFelicaチップ内蔵ですね。つまり、時計で自動改札を通ったりコンビニでの支払いができるようになりました。これは古いiPhoneとSeries 2の組み合わせでもokです。でもちょっと様子見かなぁ。左手の手首に巻いた時計でそういうことをする人、腰をかがめて体と手をひねって改札通ったりする人を見て「なんだあれ……」と思わなくなったら、でしょうか。もっとも、iPhone側とApple Watch側の両方に同じSuicaを登録することはできないので(それができたらひとつの定期券で2人が改札を通れてしまう)、入れるとしたらやっぱりiPhone側にしたほうがベターな気はします。


まぁ今回は、iPhone SE買ってまだ半年だし引越しもあるし、ていうかあまり惹かれないしということで見送りです。ジェットブラックはちょっと気になる色ですが、次の8を買う時に向けて、店頭でどのくらいキズつきまくりになるのか確認したいです。でももしかしたら、Apple Watch Series 2に本体がセラミックのモデルが出たので、iPhoneもセラミック+ガラスになるんじゃないかって噂も出てます。わりと新しい素材で製品出してくるの好きですよねAppleって。

言いがかられ


日本の寺社でもポケモン禁止の所ありましたよね。いわく、敷地内の何物も持ち帰り禁止であるとか、ポケモンよりホトケを捕まえろだとか。アメリカの教会でも進化論否定の観点からポケモン禁止のところがあるようです。ポケモンで言うところの進化は、ほんとは進化じゃなくて変態なんですけどね。まぁいいか。

それでこのインドの件が割とトンデモでね。

そもそもなぜインドでポケモンGOの禁止が求められているのかというと、インド人の3~4割は菜食主義者であり、殺生を避けるために肉・魚・卵などを食べないようにしている人が多く存在します。訴えが起こったグジャラート州は中でも菜食主義者が多いことで知られる土地なわけですが、実際にインドでポケモンGOをプレイしたユーザーによるとインド中に点在する寺院のほとんどがポケストップに設定されており、そんな菜食主義者たちが崇める寺院で「ポケモンのタマゴ」が出てくるのは、「ヒンドゥー教やジャイナ教への冒涜だ」と訴えを起こした男性は主張しているわけです。


おめえゲームをプレイしてねえだろっていう(笑)。ポケモンにタマゴは出てきますが、食べ物としてではない。本来の意味での、新しい生命のはじまりとしてのタマゴが出てくるわけです。別に菜食主義を否定しているわけでもなんでもない。それに対して菜食主義者をバカにしてるとか言い出すのは、お前こそがタマゴを生命ではなく食べ物として見ている不信心者じゃねーかよ!っていう。

しかも寺院が訴えたわけですらない。ただの「地元の男性」だという。うーん、ネタかな? ちょっと有名になりたかったとか。まぁ放置しておいていいでしょうね、こういうのは。なんでも、ものごとが大きくなると、逆張りする人が必ず出てくる。誰がどう見てもアウトなのに1人擁護する記事書いてブクマ稼ぐマンとかね。ちょっとの掛け金で乗っかれて大きな利益を得られるチャンスですからね。

なお、インドではTwitter上などでこの訴えが大きな話題となっており、多くのユーザーは男性の訴えを「くだらない訴えだ」と判断している状況。インドの元国務大臣であるシャシ・タルール氏は自身のTwitterアカウント上で「こんなくだらないケースで我々の司法制度を邪魔しようとするのはなんとも滑稽なことだ」とつぶやいています。


いやまったくです(笑)。

ポケモンの名所


これは単純にすごいと思いましたね。ポケモンGOは人の流れを変えることによって社会に影響を与えることができる。基本的にはある場所に人を呼ぶだけですけどね。

でもその力の使い方を工夫すればいろんなことができそう。人を呼ぶってことはその移動経路にも影響があるわけです。Nianticと地震の被災地が連携してイベントをやることも発表されましたし。また、人を呼ぶってことは大局的に見れば他の場所から人がいなくなってるわけです。人々がポケモンやってる間はTVの視聴率だって下がってるかもしれないし、ディズニーランドに湧く大量のポケモンがアトラクションの稼働率に影響を与えてるかもしれない。

そして東尋坊に配置された大量のポケソース(=ポケモンが湧く場所の通称。ポケモンはランダムに湧くわけではなく、湧く場所は決まっている)は、これが人為的なものであることを示しています。みんなはまるで自然現象であるかのように「東尋坊にはたくさんポケモンがいるんだって!」なんて話をしてますけど、そうじゃない。Niantic社内の誰か(もちろん日本人でしょう)が、この"自殺の名所"にたくさんポケモンが湧くようにしたら面白いんじゃないか、と考えたわけです。そのことはほとんど話題にはならないけど、ちょっと怖いことですね。もし日時場所を決めてそこにレアポケモンを湧かせることができたら。いえ、できるわけですけど、例えば渋谷の交差点に万単位の人を集めてしまうとか、きっと造作も無いでしょうね。


あと、このツイートに集まってるクソリプの嵐も面白かった(笑)。自殺したい人は他へ行くだけだから自殺は減らないよ!とか。ツイート主も、そんなん自分に言われても困るわ、って感じでしょうね。

ペフボトル


 東洋紡の6日の発表によると、新しい樹脂は「ポリエチレンフラノエート(PEF〈ペフ〉)」。オランダのバイオベンチャー「アバンティウム」と技術提携し、量産化を実現した。


 ペットボトルはわずかに気体を通すため、内容物の酸化が避けられなかった。PEFならば酸素は10分の1しか通さないという。樹脂の厚みを薄くしても性能が保てるため、容器の軽量化にもつながる。


ポリ/エチレン/テレフタレートでPETだったのが、ポリ/エチレン/フラノエートでPEFになるそうです。ペフ、力が抜けますね。酸素は抜けないそうですが。

「さらに、原料を全て植物由来に…」と続くのですが、朝日新聞なのでこの先は登録しないと読めません。もちろん登録なんかしてないのであとは何が書いてあるかわからない。なので東洋紡のリリースを見に行きました。



朝日の記事とはニュアンスが違いますね。大事なのは酸素を通さないことではなく、100%バイオ由来の原料で作られていることみたいです。うーむ、これが朝日的改変なんだろうか。

さらに検索してたらこんなのも見つかった。



3/15の段階では、オランダのアバンティウムはドイツのBASFと「合弁事業の設立に向けて他社を交えない交渉に入る趣意書に調印」していたようです。でも結果としてBASFの役割は日本の東洋紡が負うことになったようなので、そっちとの交渉は失敗に終わったのかもしれません。そこまでは追ってないですが。


さて、酸素を通しにくい素材ということで、新しい飲料のボトルの登場が期待できそうですが、と考えて……酒?くらいしか思いつかなかった(笑)。醸造酒であるビールや日本酒のペフボトルが出てきたりして? 蒸留酒の焼酎はもうペットボトルのありますけどね。でも日本酒は紙パックのあるから酸素とかあまり関係ないのかな。

いまさらトロッコ問題


途中で切れてるな。"【悲報】トロッコ問題で「5人の命を助けるために1人を殺してもよい」選択肢を選ぶサイコパスが89%もいるという事実"です。


で、サイコパス呼ばわりされてもますけど正解はそっちがわじゃないかと思うんですよね。5人を助けるために1人を犠牲にする。それを「殺しても"よい"」って言われると少し抵抗を感じるけど、取るべき選択肢はそっちだと。

トロッコ問題はパラメータが少なすぎるんですよね。合計6人はどんな人たちなのか何も解説がないし。例えば1人のほうが死刑囚だったらとか、人間国宝だったらとか、自分の配偶者だったらとか、そういうので選択肢は変わりうる気がするんですけど、なにも属性がない。

でも属性がないということは逆にすべてが等価値だってことだから、やっぱ1人を犠牲にするほうが害が少ないと言えるでしょうね。これが子牛だったら解りやすいんじゃないでしょうか。子牛1頭50万円として、一方にトロッコが突っ込んだら250万円の損害、もう一方なら50万円の損害、となれば誰も何も悩まないでしょう。

そして実際トロッコがそこまで迫ってたらいまさら5人と1人の人となりを調べてる時間もなさそうだし、やっぱり人数だけに着目するしかないんじゃないですかね。

自分の意志で選択したら責任を負うことになるからな
何もしなければその5人が死ぬのは運命だったと、無関係でいられる
それが仮に5億人だろうが5兆人だろうが変わらない


これはありますね。責任を負うのがいやだと。ここだけ克服できればみな躊躇なく1人にぶつけるほうを選ぶのではないでしょうか。それか、何もしないことにも責任を発生させられるか。それもできなくはない気もします。

ほんとにお前はシャルリ―か?

「イタリア風地震」との題で同紙最新号に掲載されたこの風刺画では、血だらけで包帯を巻いた男性を「トマトソースのペンネ」、やけどを負った女性を「ペンネ・グラタン」、がれきの間に挟まれた被災者たちの様子を「ラザニア」と形容している。


漫画は「イタリア風の地震」と題し、負傷し血を流したり、やけどしたりした男女の絵をパスタ料理の「トマトソースのペンネ」「ペンネのグラタン」と形容。がれきの層に挟まれ血を流す犠牲者を「ラザニア」と揶揄(やゆ)した。今回の地震の死者290人以上のうち、約230人をしめる伊中部アマトリーチェはパスタ料理で有名で、そこから連想したものとみられる。


この件に、ぼくは疑問を持ちました。「風刺ってなんだっけ?」って。以下はgoo辞書から。

[名](スル)社会や人物の欠点・罪悪を遠回しに批判すること。また、その批判を嘲笑的に表現すること。「―のきいた小説」「時代を―する」


欠点? 地震で被災して亡くなった人に何の欠点・罪悪があったって言うんですか? ぼくの考えではこれらは風刺画ではないと思います。


「わたしはシャルリ―」とか言ってた人たち、いましたよね。そうか。お前らはこれですかw ほんとうに、その覚悟はあったのか?


「風刺」の定義からしてこれは風刺画ではないと思うけれど、じゃあなんなのかって言われるとよくわかりません。このネタで笑える?って聞かれても、ちょっと笑えないと言うしかない。笑えるとしたら、「うはは。いやー、シャルリ―、ここまでやるのかよ」っていう、呆れを伴うメタ的な笑いです。

シャルリー・エブドが何を目指しているのかは知らないけど、表現の自由を追及するということが目的だったら、その一点においては、その一点においてのみ、評価できるような気はします。たぶん違うんじゃないかって思うけどね(笑)。それでも、表現の自由は誰にも、何にも妨げられてはならない。もちろん表現後に殴られる、撃たれて殺されることは折り込み済みの上で。

イタリア的


「平凡だが幸せで満足できる人生を送る方法」― こういったタイトルの記事って、もう山盛りお腹いっぱい読みすぎて、読む前からだいたい内容が予想できちゃうようなものばっかりですよね。でも今回のはちょっとだけ違った。

世の中ではクリエイティブさや生産性、効率性などが求められることが多くありますが、「素晴らしいものを求めると、その分何かを犠牲する」ということで、人間があえて質の低い平凡な結果を生み出そうとすることを指す「kakonomics」という現象も存在します。このkakonomicsをベースにして人生を送る人々の考え方をBBCがまとめています。


カコノミクス。ふーん初耳。まぁそれはいい。イギリスの哲学者とフランスの社会学教授がイタリアについて研究をしたとのこと。イタリアでのカンファレンスやワークショップではこんなことがふつうに起こるそうです。

  • 割り当てられた時間に対してスピーチの長さが半分になったり2倍になったりする
  • 論文の根拠が適切に改訂されていなかったり、他の根拠とごっちゃになっている
  • 事前の連絡なく会議に欠席したり、逆に出席したりする
  • メッセージは消失する
  • 弁済は遅れるか忘れられるか額を減らされる


ウケる。さすがイタリア人。で、哲学者と社会学教授は、こんなことイギリスやフランスじゃ起きないのになぁ、と思ってイタリア的なユルい価値観について研究し論文を書いたと。

イタリアでは自由に遊び暮らすことを「la dolce vita(甘い生活)」と表現しますが、この時の「自由」が生活の全てにおける「自由」を指すとすれば、甘い生活は非常に高くつきます。つまり、この時の自由とは高水準を求めないことの見返りとして得ることのできる自由、のんびりした暮らしぶりの意味になります。イタリア人の哲学者であるOriggi氏によると「人々は時に効率性の支配に耐えかねて、事態を和らげる傾向がある」とのことで、「甘い生活」という価値観のあるイタリアではkakonomicsがよく見られる様子。


このまとめが、ぼくはなんかいいなと思ったんですよね。読んで、よくわからないじゃないですか。書いてる本人もわかってないのが伝わってくる。そしてラ・ドルチェ・ヴィータ、甘い生活って、どうもぼくらがイメージしてたのとは違うらしいぞ、って思えてくる。余裕(とそれを裏付ける金)を持った上で爛れた生活を送るってわけじゃないのね。どうにもとらえきれない。

そしてそのとらえきれなさって、きっと欧米人が侘び寂びとか禅とか幽玄とか、そういうニホンゴの意味を聞いたときの、わかったようなわからんような……ってのと等質なんじゃないかって、そんな気がしたんですよ。きっとカコノミクスは単なる「求め過ぎない」じゃない。イタリアに生まれその空気の中で育った人にしかつかめないようなものじゃないかなって。きっとなんか深いものがあるんだろうけど、でもぼくらが侘びってなんなのか説明して!って言われてうまくできないようにイタリア人もまぁまぁとか言って説明してくれなさそう感ある。