すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「この文章は面白いか面白くないかのいずれかだ」

「この文章は嘘である」についてもう少し考えてみました(ひとんちのblogのネタでひっぱる。これが毎日更新可能なblogの秘訣です(嘘))。


「この文章を表示しているのは液晶ディスプレイである」 文が表示される機器によって真偽が異なる。 
「ここは東京だ」 文が読まれる場所によって真偽が異なる。
「今日の天気は晴れである」 場所によって真。
「今は午前2時ちょうどだ」 24時間のうち一瞬だけ真。
「竹島(独島)は日本領である」 海峡の真ん中あたりで真偽が反転。
「日本一高い山は富士山である」 真。ただし、いつまで真であるか不明。将来日本のどこかで噴火が起きたり、日本がX国を侵略し併合した場合は真でなくなる可能性あり。


こうしてみると、命題の真偽は、命題が言及しているものや解釈する人にゆだねられているような気がしてきます。そこで思い切って、命題の真偽は命題の外部にある、と言ってしまいましょう(いいのかな〜)。

いやそうではない、恒真命題(トートロジー。「AはAである」とか)はどんな状況に置かれても常に真ではないか、という意見もあるでしょう。そうなのかな? 解釈する人がいなくても恒真命題は真なのでしょうか? 読まれなくても命題の真偽は決定しているというなら、それにならって「この文章は嘘である」と書かれたこの紙も、箱に入れて鍵を掛けてしまいましょう。解釈禁止!(笑) これで真偽の反転は止んだはずです。どっちになったのか不明ですが。(でもなんとなく、読まれる以前の状態は真であるような気もしないでもない)

あれですね。誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか、みたいな。


この記事はあとで続きが書かれる予定です。