すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

倫理と感動

もしかしてこんなのいまさら? わたしはスタートラインが人よりずっと後なんじゃないか?と思いつつ。

今日わかったこと。「倫理と感動は関係ない」


いやね、なんとなく、感動するような映画とか小説とか、そこに倫理・道徳的正しさみたいのがあって、それが守られた、ということが感動につながるんじゃないか、とぼんやり思ってたんですよ。で、太宰治の『走れメロス』を例に考えてたわけです。これは「約束の履行」に関する話だと。

でも、久しぶりに読み直したんですけど……違いますよね。わたしはほんとにシンプルな脳の構造を持っていて、いまメロス読んでもマジで感動できるおめでたい人なんですけど、それはメロスが約束を守ったからじゃないわけですよ。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」


これは信頼に関する話、「メロスが『人に信じられる経験とはどういうことか』を理解する」という話でした。でも、たまたま、たまたまですよ、メロスの走る方向と倫理が指す方向が一致してしまっている。だから小学校だか中学だかの倫理道徳の授業で取り上げられていたんだな。まったくもう、勝手に錯覚してひとりでだまされてました。「約束を守ることは大事」なんて、つまらない言葉で一般化してはいけなかった。


倫理と感動は関係ない、ってのを、じゃあ、「倫理」「感動」の方向を変えて例示してみます。

ある人が、窃盗の犯行現場を目撃しました。犯人は実は彼の友人。その人が真実を証言すれば、友人は逮捕され、彼の病気の母親を世話する人は誰もいなくなる、という状況があるとします。もちろんここで、それでも真実を証言するのが倫理の方向です。しかし、友人とその母親を守るために偽証する、という方向のほうが、物語になると思いませんか? 友人が逮捕されて「俺は正しいことをしたのだ」と言うより、偽証して「これでよかったのだ」と言うほうが、ちょっといいような気がします。つうか前者は嫌だよ(笑)。(でも、友人逮捕で「本当に俺は正しかったのか?」とか、偽証で「これでよかったのだろうか?」と悩む方が、よりねじくれてて、話に深みが出るような感じもしますね)

ここで、「偽証」の方を“人間的”って言いたくなってしまう気分、ないですか? 「倫理的に正しい」と「ヒトとして正しい」は、対立することもあるように思えました。


どうして倫理と感動の関係なんて考えていたのか? わたしは倫理とか道徳とか押しつけられるのが嫌い目な人なんです。でも、このセカイは倫理的な人が多いから、映画やら小説やらマンガやらアニメやらも倫理的に作られてる(ように見えた)のが多い。倫理と疎遠になって、それらから得られる「感動」が減ったらヤだから、都合のいいときだけ倫理的人間になれるように自分をコントロールしよう、って考えてたんです(その発想もどうよ?) でも、別に倫理的な性格を持ってなくてもオハナシには感動できることがわかったので、遠慮なく倫理とちがう方向を向いて歩いていっていいんだな〜って(だから、その発想もどうよ?)。