例の記事についての反応は、「個人vs共同体」という対立軸で語れるらしい、ということがわかった。おー、なんだかそれは哲学の再発見? いや、すごく頭のいいひとたちが一生やり続けたようなことなんだから、そういうことを延々考えるのも楽しい作業なのに決まってるよ、と思う。
で、もちろんぼくは、個人寄り。というか、極セカイ系。ぼくの目指すところはきっとこんな。
- 「全ての人が独我論者である」ということへの気づき
- 一人一宗教
- 上記について、それぞれが勝手にやる
なぜ「気づき」なのかというと、だって「すでにそうである」から、あとは気づくだけでよいと思うので。「一人一宗教」は、まぁ一人複数宗教でもいいんだけど、要するに、誰かに寄りかからず、誰かの仲介を入れず、やるなら直でやれ、ってあたり。「勝手にやる」は、「みんながそうあらねばならぬ」じゃ結局共同体だから。
で、かなり共同体寄りのひとの反応です。
http://www02.so-net.ne.jp/~taro-r/diary/index.html
2006/3/10の日記。
ネットで見つけた 「なぜ『なぜ人を殺してはいけないのか?』 と問うてはいけないのか?」という文章に書かれている ことは,わたしにすれば当たり前と思うことでありますが, この様な結論を出すために苦労している人が大勢いる…って ことの問題を語る人はあまりいない気がします。
しかしわたしも「人を殺してはいけない」 「放火をしてはいけない」「ものを盗んではいけない」等というのは 最終的に肯定的な結論に落ちないのであれば,それを考える べきじゃないかも知れない…とも思います。
つまり言いたいことは,自分で考えてもろくな結論しかだせない やつに自分で考えろとか言うなよ,そういうやつは強制的に 刷り込ませろよ…とある意味怖い結論ですが,でもあながち 間違いでもない…とも思ってます。というか「自分で考えろ」と 強要することの危険性をもう少し考えて欲しいと思います。
うーん。これは被奴隷化受容宣言だろうか。「考えても間違えそうなら考えるべきでない」。いやいいんですけど。こういう人たちがいるからこそ社会が成り立っているわけで、感謝しなくてはいけない(嫌味にしか聞こえないのが難だ)。問題は、こういう人たちが「社会のため」と思って為すことが、ぼくのような人間をも利してしまう、ということですか。あー、思想内容で逮捕されない世であって良かった。