インターネットください : 最近見た素晴らしい「努力」の定義
何らかの成果が出た時、その成果を得る為にとった行動が努力として規定される。つまり、「成果が出た」時点から遡って、「努力をした」という過去が形成されるのだ。故に努力は必ず報われる
「努力すれば報われる」というのは全くのウソで、実際にはある「成功」が発生した時点からその成功者の過去を遡り、その現象をうまく説明できそうな適当な理由が発見された時、それが「努力」と定義される
("定義"のオリジナルへのリンクは上記エントリ中にあります)
今回のこれはいずれ近いうちに書こうと思っていたエントリなんですが、ちょうどいいタイミングで"「努力」の定義"についてのエントリが出たので、便乗することにします。
さて、進化論における「適応」の概念も、ちょうどこの「努力」と同じです。生き残った生物種が、後付けで「環境に適応した」と言われるのです。適応とはそういうもので、あらかじめ方向の定まった目的論でないことについては、Wikipediaにもそう書いてあります。
適応と目的論
通常、生物学者は適応的な形質を「○○のための形質」と呼ぶ。このために、しばしば進化には意図や方向性がある、または目的論を含意していると誤解される。このような表現は「自然選択によってその形質に影響を与える一連の遺伝的変異が蓄積され、その形質が形成された」と言う表現の短縮形である。
ラマルクは用不用説を唱え、前進的な変化の方向に動物の体制は進化し、それぞれの段階において環境に主体的に対応して変化してゆくと考えた。一般的にイメージされる適応はこの意味に近い。またダーウィンもこの考え方をいくらかは踏襲していた。しかし現在では適応は自然選択の結果で、能動的なものであり、生物が主体的に適応しようとして起きるものではないと考えられている。
生物は、「適応したから、生き残った」のではありません。「生き残ったから、適応しているとされた」のです。なんだか禅問答のようですが、ここには原因と結果の逆転という大きなちがいがあります。……ということで、「努力の定義」ふうに「適応の定義」を書き直してみるとこうなります。
何らかの生物種が現に生存している時(=絶滅していない時)、生存する為に有利と考えられる形質が適応として規定される。つまり「生存している」時点から遡って、「適応した」という過去が形成されるのだ。故に適応した種は必ず生存している
しかし、この逆転はしばしば忘れられがちです("適応する"ということばが一般的には自動詞として使われるせいかもしれません)。そこがぼくの感じているきもちわるさなのだと思います。たとえば、専門または専門に近い人が執筆したと思われるWikipediaでも、ダウト−!なことが書いてあります。
- ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。それは以下のような形で説明される。
- 生物がもつ性質は、同種であっても個体間に違いがあり、そのうちの一部は親から子に伝えられたものである。
- 環境収容力は常に生物の繁殖力よりも小さい。そのため、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す。
- それが保存され蓄積されることによって進化が起こる。
「つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す」という主張にはおかしな部分があります。ある時点でそれが有利な形質であるかどうかは、その後により多くの子を残したという結果が確認されるまでは判らないからです。要するにこれは論点先取なのです。
「適応したものが生き残る」と「生き残ったものが適応したとされる」の違いがどれだけ大きなものか? 前者はある事実の主張ですが、後者は単なる言葉の定義なのです。
たとえば「2で割り切れる整数を偶数とする」とあらかじめ決めておいて、「では、ほんとうに偶数は2で割り切れるのか確認してみよう!」という人はいませんよね。故に「偶数ならば2で割り切れる」という主張は、ただのトートロジーです。そして、「適応したものが生き残る」「有利な形質を持ったものがより多くの子を残す」という主張は、まさしくこのトートロジーにほかならないわけです。
で、自然選択説は進化論の根幹をなす説のはずなのに、こんなふうに実験も反証もできない部分が含まれていることが、なんやらきもちわるいなー、とぼくは感じているわけです。それってほんとに科学なんだっけ?っていう。