すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

では結局、自己とはなにか?

最近立て続けに読んだスーザン・ブラックモアの本、その後読んだ(以前買ったものを読み返していた)前野隆司さんの本によって、ぼくがずっと考え続けていた自分/自己/私とは何か?についてのイメージがいよいよまとまってきました。おそらく、これが最終的なものだと思う。

ただ、なぜそうなるのか?を説明するのはそれなりに面倒、なので、結論部分だけ語ってみます。おそらくそれでは中二病的な「設定」にしか見えない気もしますが(笑)。

自己とは、一元論的で非連続的で受動的なものです。一元論的とは、要するに自己は脳の働きに伴なって生まれるもので、物理的な脳を離れては存在し得ない(霊の類はない)ということです。非連続的とは、自己は常に存在しているものではないし、生まれ変わったりもしないということです。受動的とは、自己には自由意志はなく、起きていることをただ視るだけの存在であるということです。

つまりぼくが辿り着いた場所は、よく知らないけどこれってたぶん仏教の言ってることなんじゃないの……という感じです。ぼくもそんな多くの宗教を知ってるわけではないですが、仏教だけはなんだか別物のような感じってありますよね。それは宗教ではない、という話も聞きますし。

ぼくは別に新しいことを言っていません。前から、そういうことを言っている人はいて、それを読んでもいた。ただそれが、身になったのです。例えるなら自転車に乗れるようになった感じ。バランスを取りながらペダルを漕ぐのだ、と言われていたものが、自分でほんとうに出来るようになり、なるほどそういうことか、と体得したのです。でも、人に伝えるときはやはり、「バランスを取りながらペダルを漕ぐんだよ」としか言えないという(笑)。そこがもどかしくもあるのですが。

これから時間を掛けて、この考え方を身に染み込ませていくつもりです。理屈ではそれが正しい、自己なんて幻に過ぎない、と思っていても、感覚的には「確固とした自分」が存在している感じはなかなか拭い去れはしない。でもなんとなくやりかたはわかる。これも、瞑想をする時はそうしろと言われているのと同じでした。瞑想の時って、「私は今呼吸をしている」「私は今◯◯について考えている」みたいに、行為をただ見つめるようにするらしいです。おそらくそれと同じで、自分の体がする行動を一歩下がって客観的に見る感じかな。それで自己と肉体は分離できる気がする。(ぼくは自由意志でこの文章を書いている、のではなく、ぼくはぼくの体がこの文章を綴るのを見ているのです。そうなります)

とりあえずここまでで。結論だけにしてもやや言い足りない感じもあるので、もうちょっと書くかも。