すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

たわごと

会社で仕事中に考え事してて、まぁ仕事中は仕事しろと思うんですけど考え事してて、はっ、と気付いたこと。どういう思考経過を辿ったんだかあまり思い出せないので、得た洞察だけ書く。すごい乱雑な未整理のエントリです。

相変わらず「自分とはいったい何か?」みたいなこと。

およそ「私の○○」という形で語れるものは、その○○を切り離しても「私」本体には影響はない、と思っていたんだけど。例を挙げると「手」とか。手なんかなくなっても私は私。「性格」が変貌しようが私は私、のはずだけど、でもひとつだけ違った。「記憶」だけは、「私の立ち上げ」に直接に関わるもので、私からは分離できない。

「記憶」という言葉の指している概念的には分離できそうな気もするけど、多分むり。それはロボット(「ハード」+「ソフト」+「データ」)みたいなものからの、間違った類推だと思う。私の記憶を入れ替える、ということは多分できない。入れ替えたら、それは別の人になるだけ。

というのがひとつで、もうひとつは、

「私」に実体はない、ということ。アナロジーとして言えば、「私」は、川にできた渦とか、噴水の水のような、「流れ」がたまたまいま取っている形そのものだ、ということ。

何を言っているのかというと、例えば川の場合、昨日通りがけに見た場所に今日もまた渦ができていた、というときに、これを、同じ渦と呼んでいいかどうかは、恣意的に定まるということ。例えば噴水を一度止めてまた動かしたときに、その水のアーチは「前と同じ」と言っていいのか、同じ設備を他の場所に作って動かした場合はどうなのか。

これはあのよくある思考実験に直接関わる。「物質転送機」で人間を火星に送るとき、送り側ではスキャンされ破壊された人体がデータとして転送されて受け側で再構成されるとき。もとの人体と寸分違わないものができるなら、それは同じ人間と言えるのか。もしコピーができたら同じと言えるのか。それは、昨日と同じ場所にある川の渦を「同じ渦」と呼びたいかどうか、というのと同程度の意味合いしかない、ということ。

なんのことはなくって、これ(後者のこと。前者は知らない)は仏教が言ってることだと思う。いままで、言葉として読んではいたけどまるで理解できていなかったのだ。ぼくが出家した修行僧なら、同じ僧仲間に「うはwww やっとわかったwww 仏教テラスゴスwwwww」とか言ってそうだけど、残念ながら僧ではないので理解できた嬉しさを伝える相手もいないのでここに書き置くことにします。人にちゃんと伝わる形に直せるかどうか。

実体がないんだから、魂とかもないってことですね。なるほどな。