すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

定言命法で語れ

ぼくの嫌いな言い回しにこういうタイプのものがあります。いわく、「生活保護を批判する奴は、もし自分がそれを受けざるを得ない状況になったら、ということを考えていない」。

誰か「もし自分が生活保護を受けざるを得なくなったらどうするのか? 生活保護の基準引き下げには絶対に反対しなくてはならない」
ぼく「死にます
誰か「え」
ぼく「生活保護を受けるような事態になったら、そんなの受けないで死にます
誰か「」


ぼくはほんとうに、そんな事態になったらまー死ぬかーと考えているんですけど。別に理解される必要もないと思ってますけど。それはそれとして、ここで"誰か"の反応パターンを3通りぐらいぼくは想定します。

  1. そんなことあるわけがない。そうなったらあなただって生活保護を受けるに決まっている。だから基準引き下げには反対しなくてはならないのだ」
  2. 「あなたとは対話が成立しないようだ」(打ち切って他へ行く)
  3. 「そうか。あなたはそうなのかもしれない。でもそれでも、基準引き下げには反対しなくてはならないのだ」


ぼくの嫌いな言い回しをする人の中には、1のパターンの人(お話にならない系)が多いような気がします。2の人は賢明な人です。でも、正解に近いのは実は3なんじゃないかなーと思うのです。


倫理の法則は定言命法、「○○せよ」の形式で語らなくてはいけないのではないか?


定言命法に対する仮言命法、「もし××なら○○せよ」の形式で語ると、じゃー××じゃなかったら?ってツッコミを必ず受けることになります。もし自分が超貧乏人になったら? 生活保護を受けるだろう? だから引き下げに反対しろよ。いやぼくはそんなの受けるつもりないから反対しなくていい?

もし自分が困っている時のことを想像できるなら、困っている人は助けるべきだ」。いや、そうではない。想像なんかできなくても、「困っている人は助けるべきだ」。まだまだ。困っている時しか助けないのか? 「人は助けるべきだ」。人だけ? イヌは? 「助けるべきだ

単に。なんであれ、どうであれ、単に「助けるべき」である。それが本当であり、あり得べき形なんじゃないかと思います。


さてこれで、うるさい小学校教師にも反論できることになりました。「アフリカでは飢えて苦しんでる人たちがいるんだから、給食を残しちゃいけません」「先生、もしアフリカの人たちが豊かになって食べ物に困らなくなったら、給食を残してもいいんですか?」 アフリカ全然関係ねえ、単に給食は残しちゃいかんのです。そのことがハッキリしました。