すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

死が楽しみという心境

学者や研究家がどれだけ偉そうな持論を展開しても実際に死ななきゃ分からないわけだし
輪廻転生も極楽浄土も煉獄も地獄も全部有り得るんだぜ


「死んだ後が楽しみ」に同意。どう考えても、"死"は生きてる間に起こり得るどんなイベントより重大さで勝るわけだし。宇宙人が地球に来たり神が現れたりしない限りはw 楽しみでないわけがない。

少し前までは、楽しみななにか(例えば誰かの新作とか)があって、それを見るまでは死ねない!みたいな気分もあったのだけど、もうちかごろはどうでもよくなった気がする。それはそれで、もし見ることができたら嬉しいけれど、いまここで終わってしまっても別にいいやという気分。ただ、いま死ぬ積極的な理由もないので、生き長らえている。

たしかに、生きていれば、楽しいことはあると思うけれど。しかし、この先何十年生きようとも、世界について知れることは、ほんのわずか。100のうちの、1を知って死のうが、2を知って死のうが、大差ないかなっておもうんですよね。


では死んだらどうなるのか。この手のスレは見かけるたびに読んでるけど、ただ繰り返しで、もう新しいネタは出てこない感じですね。意識が存在しなくなることを、明らかな誤用で"無意識"って言っちゃってるし、まぁそんなレベルかなぁと。

死んだら、何も存在しなくなるか、何かは存在するか。Aか非Aか。しかし、この、「Aと非A」という二元論すら、単なる人間の頭脳の制約かもしれない。「Aと非A」以外を許す、「死んだら何も存在しないか何かが存在するか」以外であるかもしれない。人の頭では、そんなの考えられないですけどね。

もし、死んだら何も存在しなくなるなら、何も恐れることもない。ぼくらが眠りにつく瞬間を意識できないのと同じように、死ぬ瞬間も意識はできない。経験は常に一瞬遅れてやってくる。現在は過去としてしか知り得ない。何かが起きて、起きたあとにぼくらはそれを知るわけですが、その、知る主体が存在しなくなるわけなので。眠るのと違いはない、ただもう目覚めることがないというだけ。しかし寝る際に人はもう一度起きられるかなんていちいち心配しないわけだし、だから死も気にすることはないと思う。

では、もし、死んだあとにも何かが残るとしたら? それこそ、なんの心配もいらない。どうせいまの時点ではなにもわからないしなにもできない。だからいまできることにただ集中すればいいと思う。死んでからのことは死んでから考えればいい。

というふうに、どっちであろうが別にいいじゃんねという話であって、きちんと理解すればそういう結論にしかならないんじゃないかなぁ、とぼくは思うのです。ただここで、人によっては、死ぬ前に何かを成し遂げられるかどうかとか、死んで残される家族がどうとか、そういうことを気にしたりすることもあると思うんですけど、でもそれらは、死そのものとは、正直ぜんぜん関係ないです。問題と感じているならさっさと片付けておくべきとは思いますが。だって明日、いや、いま、死がやってくるのかもしれないわけですしね。