すべての夢のたび。

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欠如している何かについて

新約聖書のなかに、「山上の垂訓」(山上の説教)と呼ばれている部分があります。「マタイによる福音書」の一部です。そこには、たぶん誰もがどこかで一度は耳にしているようなフレーズが、たくさん並んでいます。

  • 心の貧しい者は幸いである。天の国はその人のものだからである。
  • 誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。
  • あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい。
  • 右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
  • 求めよ、さらば与えられん。

他にも名言至言がいっぱい。キリスト教精神を凝縮したような箇所なので、教会の説教などで取り上げられることも多いようです。


わたしが大好きな言葉に「あなたがして欲しいと思うことを、あなたも人にしてあげなさい」というのがあります。聞いたことがある人も多いと思いますが、これも「山上の垂訓」のなかの一節です。初めてこの言葉を聞いたときには、ほんとうに、雷に撃たれたようなショックを感じたものです。

ですが最近、「これ、間違ってるな」と思うようになりました。間違っているというか、もう通用しない。むしろこの言葉は有害かもしれない、と。


ここはもう、イエスの生きていた2000年前とは違うのです。みなが羊を追ったり、魚を捕ったり、小麦やオリーブや葡萄を栽培して日々を暮らすような、シンプルな時代ではない。人々の取り得る行動のオプションは無数にあり、宗教も(無宗教も含め)無数にあり、貧富の差もそれこそ天と地ほどにあり、ある人の嫌悪するなにかが別の人の楽しみだったりします。そんななかで、「わたしがして欲しいこと」は、ほんとうに「他の人がして欲しいこと」と同じなんだろうか?

だから、「山上の垂訓」のこの部分は書き直したい。わたしならばこうします。

「あなたがして欲しいと思うことではなく、その人がして欲しいと思うことを、その人にしてあげなさい。それがわからなければ、『何をして欲しいのか?』とその人に尋ねなさい。たとえそのことが間違っていると感じても、その人を手伝い、させてあげなさい。なぜなら、第一に、間違っているのがあなたのほうであるかも知れないからであり、第二に、たとえあなたが正しくその人が間違っていたとしても、人はみな、間違いのなかからしか学べないからである。その人が自分で正しい道を見いだす機会を、あなたが奪ってはならない」


ひとと話をしなさい、コミュニケートしなさい、ってことです。相手のして欲しいことがわからなければ聞け、自分の勝手を押しつけるな、ってことです。ええ、日本中世界中に言いたいです(笑)。(ただし、わたしの言葉は自己言及的です。つまり、あなたが「何言ってんだコイツ。こんなの無視無視」と言うなら、「不干渉」が「あなたのして欲しいこと」である故に、わたしはそれを尊重します)


キリスト教に詳しい方は「あの言葉の真意はそこにあるのではない」とおっしゃるかも知れません。ですが、あえてわたしがこんな文を書いたのは「なぜあの美しい言葉がいまは人に届かないのだろう」と感じているからなんです。もう少し、通じやすい言葉にしてみてもいいのかなーと。『HELLSING』がOKなんだったら『萌えるキリスト教』くらい全然ありだと思いますがどうですか(笑)。