すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

このひとの脳内について

わたしが哲学に興味を持ち始めたころに読んだある本(書名忘れ)の冒頭に、こんなことが書いてありました。

結局、世の中に多々ある問題は、きちんと考えると最後は全てここに行き着く。

  1. 世界とはなにか
  2. 自分とはなにか
  3. 神とはなにか(日本人は、これはないかもしれない)

なるほど全くその通りです。そもそも、世界とはなにか? そもそも、自分とはなにか? どうせいろいろ悩んでもそこに行き着くなら、最初からそこを考えた方が効率が良かろう、と思い、わたしはそうすることにしました。なにか問題が生じたとき、多くのひとが積み上げで下から考えるところを、「本来どうあるべき?」と上から考えることが多いです。だから同じような考え方をするひとには共鳴しやすいです(たとえばモヒカンの人々)。「本来」は、具体的な場面になるほどズレもでてきたりしますが、まぁおおむね合ってりゃよいじゃん、という感じです。


あと、わたしは、「世界に不満がある時の対処方法」には3つあると考えています。

  1. 世界を変える
  2. 自分を変える
  3. 自殺する

あ、もう1つ「ぶぅぶぅ言うだけで結局なにもしない」って言うのもあるかもしれませんが、対処になってないから除外。わたしは昔は1でしたが、そのうちに1は「力が及ばないケースがある」「個別撃破になりキリがない」ということに気づき、2を採用することにしました。長い時間かけて自分を改造することに成功し、不快な入力は、自分に入る直前で-1を掛けてプラスにしてしまうようになっています。それでいいの?問題は解決してないじゃん?と思われるかもしれませんが、わたしにしてみれば、もう問題はそのままでも愛せるようになっているのです。もちろん、完全に全てを、ではないですが(時々ぶぅぶぅ言ってますよね)。でもそういう「不完全な自分」さえ、-1を掛けて受け入れてしまうのです。「そんなものだよ」と。(なんかちょっと「人間だもの」くさい…)


それと、もうひとつ。「全ての人間は自己中心的である」という考えの採用、かな。

これは、途上国でのボランティア活動をずっと続けているある人が新聞のインタビューに答えていた内容、からヒントを得たものです。その人は「ひとのためではなく、自分が満足するためにやっているのだ」と言っていました。なるほどそうか、と思いました。「ひとのためになにかをする」ということは、「自分を犠牲にしてでも他人に貢献したほうが、自分の満足度が上昇する」ということです。

この「そのときに、自分の満足度が上昇する」というのが、人間の全ての行動の裏にデフォルトかつ取り外し不可の形でくっついており、故に全ての人間は自己中心的だ、というふうにわたしは考えるようになっています。だから「自分のために」より「みんなのために」とかいう願いのほうが、遙かに大きな自己中心的願望だと思う。みんなが満足しなくちゃ私は嫌だ、と言ってるわけですから。(それがいい悪い、は言ってませんよ?)


だいたいこんな考え方をベースに、わたしは動いているのだと思われます。他に思いついたらまた書きます。